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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<updated>2026-04-23T00:20:04Z</updated>
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		<title>新しいミサ</title>
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				<updated>2013-03-22T09:17:58Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Catholic: ページの作成：「'''新しいミサ'''（あたらしいみさ、{{Lang-en|New Mass}}、{{Lang-it|la Nuova Messa}}、{{Lang-fr|la Nouvelle Messe}}）とは、カトリック教会に...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''新しいミサ'''（あたらしいみさ、{{Lang-en|New Mass}}、{{Lang-it|la Nuova Messa}}、{{Lang-fr|la Nouvelle Messe}}）とは、[[カトリック教会]]において[[第2バチカン公会議]]（[[1962年]]-[[1965年]]）後の[[1969年]]に発布された、新しい典礼様式による[[ミサ]]である。[[教皇]][[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]が発布したので「'''パウロ6世のミサ'''（英・Mass of Paul VI）」とも言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概説 ==&lt;br /&gt;
[[教皇]][[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]は、1969年4月3日付けの使徒憲章『ミッサーレ・ロマーヌム』に署名をして「ミサの新しい式次第」（{{Lang-la|Novus Ordo Missae}}）の使用を許可した。ミサの原文は[[ラテン語]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新しいミサのミサ典書のラテン語典型版（Editio typica）は、発表直後の[[1970年]]に改訂され、[[1975年]]にも改訂があり、更に[[2002年]]に改訂版が出版された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 名称 ==&lt;br /&gt;
教皇[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]は、ローマ・ミサ典書の版の名前に従って、[[2007年]]7月7日の自発教令『スンモールム・ポンティフィクム』では「1970年に教皇パウロ6世が発布したローマ・ミサ典礼書」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message243.htm 教皇ベネディクト十六世 自発教令 スンモールム・ポンティフィクム――1970年の改革以前のローマ典礼の使用について―― （カトリック中央協議会）]第2項を見よ。&amp;lt;br/&amp;gt;英語訳[http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/letters/2007/documents/hf_ben-xvi_let_20070707_lettera-vescovi_en.html Letter of Pope Benedict XVI to the Bishops on the occasion of the publication of ''Summorum Pontificum'']&amp;lt;/ref&amp;gt;と呼んだ。また同教皇は「通常の形式（Forma ordinaria）」とも言った&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message242.htm 教皇ベネディクト十六世の全世界の司教への手紙 1970年の改革以前のローマ典礼の使用に関する「自発教令」の発表にあたって （カトリック中央協議会）]第5段落を見よ。&amp;lt;br/&amp;gt;[http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/letters/2007/documents/hf_ben-xvi_let_20070707_lettera-vescovi_en.html Letter of Pope Benedict XVI to the Bishops on the occasion of the publication of ''Summorum Pontificum'',] paragraph 5&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1976年]]5月24日の[[枢機卿]]会議（sacrum consistorium）で、パウロ6世自身が &amp;quot;Novus Ordo&amp;quot; が発布されたと表現している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.vatican.va/holy_father/paul_vi/speeches/1976/documents/hf_p-vi_spe_19760524_concistoro_lt.html CONCISTORO SEGRETO DEL SANTO PADRE PAOLO VI PER LA NOMINA DI VENTI CARDINALI Lunedi`, 24 maggio 1976]&amp;lt;/ref&amp;gt;ので「新しいミサ」のことを「'''ノヴス・オルド'''」ともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「現行のミサ」とも言う人もあるが、教皇ベネディクト16世は次のように言っているので、正確な言い方ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:「教皇[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]の権威のもとで1962年に公布され、公会議中も使用された、公会議前のローマ・ミサ典礼書の最終版は、典礼の『特別な形式（Forma extraordinaria）』として用いることが可能です。... ミサ典礼の『特別な形式』である1962年のミサ典礼書の使用に関して、わたしは次のことに注目していただきたいと思います。すなわち、このミサ典礼書が'''法的な意味で廃止されたことは決してありません'''。したがって、このミサ典礼書は原則的にはつねに認められてきたということです。」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message242.htm 教皇ベネディクト十六世の全世界の司教への手紙 1970年の改革以前のローマ典礼の使用に関する「自発教令」の発表にあたって （カトリック中央協議会）]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その理由は、「現行のミサ」というのはあたかも「教皇ヨハネ23世の権威のもとで1962年に公布され、公会議中も使用された、公会議前のローマ・ミサ典礼書」が廃止されたものであることを暗示させるからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
新しいミサは、自発的に突発的に生まれてきたのではなく、約50年ほど（1920年ごろから1969年まで）の「典礼運動」と呼ばれる教会の一グループの努力によって準備されてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 典礼運動 ===&lt;br /&gt;
典礼運動の初期はソレムのベネディクト大修道院長であったドン・ゲランジェの影響下のもとにあったが、次第に、将来の[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]となるロンカリ神父の友人であったドン・ランベール・ボドワン（dom Lambert Beauduin (1873-1966)）の影響を受けていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドン・ボドワンの影響で、典礼の目的として礼拝よりも'''司牧の首位性'''が強調された。それ以前は、例えば[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピオ12世]]の『メディアトル・デイ』によれば、典礼の主要な目的は礼拝であり、司牧や信徒の教育は副次的なものとされていた。またドン・ボドワンの影響を受けて、典礼は'''教会の一致のため'''に適応すべきであるという考えが生まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら2つの目的のために、典礼運動は次のような改革を求めた。すなわち'''[[ラテン語]]の代わりに各国語を使用'''すること、'''ことばの典礼を強調'''すること、'''司式司祭が会衆の方に向く'''こと、[[プロテスタント]]が受け入れることが出来ないような'''カトリックのドグマを、典礼において強調しない'''こと、である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 規範ミサ「ミサ・ノルマティーヴァ」 ===&lt;br /&gt;
[[1964年]]、教皇[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]は、コンシリウムと呼ばれる「典礼憲章実行委員会（''Consilium ad exsequendam Constitutionem de Sacra Liturgia''）」を作り、典礼聖省発布の1964年9月26日付けの指針『インテル・エキュメニチ』で、典礼に大きな変更を加え、[[1965年]]から効力を持たせようとした&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.adoremus.org/Interoecumenici.html ''Inter oecumenici'']&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、[[1967年]]に『[[典礼憲章]]』を実行するための第2の指針『トレス・アビンク・アンノス''Tres abhinc annos''&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.adoremus.org/TresAbhinc.html ''Tres abhinc annos'']&amp;lt;/ref&amp;gt;が出された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]]10月21日に、アンニバレ・ブニーニが事務長を務める典礼憲章実行委員会（コンシリウム）は、新しいミサの草案（'''「ミサ・ノルマティーヴァ（Missa Normativa）」'''つまり「規範ミサ」と呼ばれた）を完成させローマで司教会議（[[シノド|シノドス]]）に提出した。この草案は、『典礼憲章』の論理的な結論として「儀式は簡素の美を備え、簡単明瞭であり、不必要な重複を避け」（『典礼憲章』34）、「祭儀における聖書の朗読を、いっそう豊富で、変化に富み、また、より適切なものに改訂」（『典礼憲章』35）した、「より簡潔にされなければならない。時代の経過につれて重複するようになったものや、有益でもないのに付加されたものは削除され」（『典礼憲章』50）たものであった。ブニーニは、あたかも信徒たちが[[グレゴリオ聖歌]]を歌いつつも典礼様式を全く理解してこなかったし、また典礼の単なる目撃者にすぎなかったかのように主張していた&amp;lt;ref&amp;gt;A. Bugnini, ''La Riforma liturgica'' (2nd ed. 1997), p. 55&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月26日、シノドスではミサの規範版の原案について討議が行われたが、180名の[[司教]]のうち、71名が賛成、62名が条件付賛成、4名が棄権、43名が反対であった&amp;lt;ref&amp;gt;規範ミサは司教たちの投票に付せられ、180票のうち、71人の司教が''placet'' (賛成)し、43人の司教が''non placet'' (反対)、そして 62人が''placet iuxta modum'' (条件付き賛成)であった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。パウロ6世はブニーニに見直しを求め、その後ブニーニは、6回にわたってミサに新しい聖変化の言葉で3つの典文 Canon（後の「奉献文」Prex Eucharistica）を作る許可と、聖変化の言葉から「信仰の神秘」Mysterium fidei を取り除く許可を求めた。パウロ6世は同意し、&amp;lt;!-- 1966年5月23日には教皇に従順であるために典礼聖省の長官グート枢機卿は同年8月15日から新しい典文を使うことを許した。 （この部分、時系列が合わないのでは？）--&amp;gt;ブニーニは新しい典文の[[聖変化]]の言葉と合わせて今まであったローマ典文の聖変化の言葉を変えた&amp;lt;ref&amp;gt;A. Bugnini, ''La Riforma liturgica'' (2nd ed. 1997), pp 375-380&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 1970年の新しいミサ典書 ==&lt;br /&gt;
[[Image:Mass at Lourdes.jpg|thumb|400px|right| 2006年7月28日の[[ルルド]]での新しいミサ]]&lt;br /&gt;
[[教皇]][[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]は[[1969年]]4月28日の枢機卿会議（sacrum consistorium）で、ミサの新しい式次第（Novus Ordo Missae）について予告した。同年5月2日に、4月3日付けで使徒憲章『ミッサーレ・ロマーヌム』が発表され、長い総則（Institutio generalis）と共に公にされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年9月、オッタヴィアーニ[[枢機卿]]とバッチ枢機卿とは「新しいミサの批判的研究」を承認しパウロ6世への手紙にサインした。10月21日、両枢機卿はパウロ6世に新しいミサの批判的研究&amp;lt;ref&amp;gt;[http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/ottaviani2.html 新しい「ミサ司式」の批判的研究 Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae] [http://www.unavox.it/doc14.htm Il Breve esame critico della Nuova Messa, dei Cardd. Ottaviani e Bacci]-イタリア語原文&amp;lt;/ref&amp;gt;を提出し、新しいミサの中止を求めて次のような内容の手紙を送った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:「新しい司式は、その全体といいまたその詳細といい、[[トリエント公会議|トレント公会議]]の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。あの当時に決定的に定められた典礼様式のカノンは、この［ミサの］神秘の完全性に対して向けられた如何なる異端に対しても越えることのできない防御の壁を作っていたのです。」&amp;lt;ref&amp;gt;il Novu Ordo Missæ, considerati gli elementi nuovi, suscettibili di pur diversa valutazione, che vi appaiono sottesi ed implicati, rappresenta, sia nel suo insieme come nei particolari, un impressionante allontanamento dalla teologia cattolica della Santa Messa, quale fu formulata nella Sessione XXII del Concilio Tridentino, il quale, fissando definitivamente i «canoni» del rito, eresse una barriera invalicabile contro qualunque eresia che intaccasse l’integrità del magistero.&amp;lt;br/&amp;gt;[http://www.unavox.it/doc14.htm Breve esame critico del «Novus Ordo Missæ»: Presentato al Pontefice Paolo VI dai Cardinali Ottaviani e Bacci]&amp;lt;br/&amp;gt;日本語訳は[http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/rappot.html オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:「ですから、これ程の痛ましい分裂と、信仰の純粋さと教会の一致に対するますます大きくなる危機（このことは私たちの共通の父である聖下ご自身がお嘆きになったことでもあります）の時に当たって、私たちは本当に心から聖下にひたすらお願い申しあげます。聖下ご自身がかくも高く賞賛され、全カトリック世界がかくも深く愛し崇敬してきた[[ピウス5世 (ローマ教皇)|聖ピオ5世]]のローマ・ミサ典書の実り豊かな完全性に私たちが続けて使用することが出来るようにその可能性を私たちから奪わないで下さい。」&amp;lt;ref&amp;gt;Supplichiamo perciò istantemente la Santità Vostra di non volerci togliere - in un momento di cosí dolorose lacerazioni e di sempre maggiori pericoli per la purezza della Fede e l’unità della Chiesa, che trovano eco quotidiana e dolente nella voce del Padre comune - la possibilità di continuare a ricorrere alla integrità feconda di quel Missale Romanum di San Pio V dalla Santità Vostra cosí altamente lodato e dall’intero mondo cattolico cosí profondamente venerato ed amato. &amp;lt;br/&amp;gt;[http://www.unavox.it/doc14.htm Breve esame critico del «Novus Ordo Missæ»: Presentato al Pontefice Paolo VI dai Cardinali Ottaviani e Bacci]&amp;lt;br/&amp;gt;日本語訳は[http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/rappot.html オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロ6世はこの手紙と研究書を受け取ると、これらを教理聖省長官セペル枢機卿（Cardinal Seper）に送った。教理聖省は“両枢機卿によりなされた批判”の精査を行うようにと依頼した。セペル枢機卿はグート枢機卿に相談し、ブニーニに要求して新しいミサ式次第の最終的な出版を一時的に差し控え、教理聖省の神学者3名に批判研究小論を調査させることを命じた。パウロ6世は、使徒座憲章の初版には存在していなかった「この憲章に規定したことは、本年の11月30日待降節第1主日より発効するものとします」という22語を、密かに付け加えていた。他方で、Nostra haec autem statua et praescripta nunc et in posterum firma et efficacia esse et fore volumus.（上記の規定と決定とが今も将来にも確定され、効力を持つものであることを望みます。）と自分の意志を表明したが、この規定は聖変化の言葉の新しい形式についてのみ関わることであったので、パウロ6世は「真に法律上の意味合いにおいて、間違いなく御自分のミサ典書の義務化をお望みにはなってはいなかった」と言える&amp;lt;ref&amp;gt;Itinéraires n. 140, fevrier 1970, pp. 39-40&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月3日、署名のないの通達がオッセルヴァトーレ・ロマーノ紙に現れ、イタリア司教団の通達として1969年11月30日から新しいミサの式次第に従ってミサを行うべしと書かれていた。しかし、この通達について尋ねられると、イタリア司教協議会議長ポマ枢機卿は何も知らなかったと述べた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月12日、教理聖省長官であるセペル枢機卿は、国務聖省を通して教皇に教理聖省の神学者3名による批判研究の分析結果を送った。これによれば「批判研究は、表面的で過大で不正確で過激で誤った命題が多数含まれている」&amp;lt;ref&amp;gt;A. Bugnini, ''La Riforma liturgica'' (2nd ed. 1997), pp 375-380&amp;lt;/ref&amp;gt;とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロ6世は、オッタヴィアーニ枢機卿らによって批判されていたミサ典礼総則第7条を修正するように要請した。しかし、問題の総則第7条に対応している新しいミサの式次第それ自体の修正は行わなかった。そして11月19日に、新しいミサは正統であると訓話をして、10日もすると[[イタリア]]ではそれが“義務”となる事を明示した。また11月26日の第2回目の訓話でパウロ6世は、この変革が「非常に大きな犠牲」であると言った。しかし、パウロ6世の新しいミサとその総則は、1969年4月3日の承認後に、何度も修正が加えられ、公式の規範版が発表されたのは、[[1970年]]3月のことであった&amp;lt;ref&amp;gt;1969年4月3日の使徒憲章の題は「公布」という意図を明示していた：「[[第2バチカン公会議]]の教令に基づいて刷新されたローマ・ミサ典礼書を公布する使徒座憲章」(Constituio Apostolica qua Missale Romanum ex decreto concilii Oecumenici Vaticani II instauratum PROMULGATUR &amp;quot;Missale Romanum&amp;quot;)。 しかし、1970年3月26日、典礼聖省の教令（decretum）が、新しいミサの公式版を公布したとき、この教令は1964年4月3日の使徒憲章はこのミサ典書のテキストを承認していただけであって公布はしていなかった、という矛盾した説明をした。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 目的 ==&lt;br /&gt;
新しいミサの目的は二つある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#'''礼拝よりも司牧の首位性'''&lt;br /&gt;
#*第一の目的は、宣教と使徒職の必要性にミサを合わせること（礼拝よりも司牧の首位性）である。これは、[[第2バチカン公会議]]による「司祭職は宣教のためにある」に対応している。第2バチカン公会議によると、[[司祭]]の職務的司祭職は、信徒による「宣教という司祭職」を助けるためにある奉仕職とされる。（これに対して[[トリエント公会議]]では、司祭の職務的司祭職はミサ聖祭のいけにえを捧げえるためにあるとされていた。）&lt;br /&gt;
#'''エキュメニズム'''&lt;br /&gt;
#*第二の目的は、第2バチカン公会議の目標としていた[[エキュメニズム]]のためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]の親友だったジャン・ギトン（Jean Guitton）はパウロ6世から新しいミサの目的が何であったかを直接聞き、1993年12月19日にパリのラジオ局 Radio-Courtoisie でそれについて次のように語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:「『パウロ6世の』 という名前を持つ新しい典礼の意向は、信徒らにミサに対するより大きな参加をもとめること、聖書にもっと大きな場所を与え、いわゆる『マジック』とか『同一実体の聖変化』とかいわれるもの、全実体変化、これがカトリックの信仰ですが、の場所を少なくすることだといって間違いはないと思います。言い換えると、パウロ6世には、聖伝の意味においてあまりにも『カトリック』的なものをミサにおいて消し去る、或いは少なくとも訂正するか曲げる、そしてカトリックのミサを、繰り返して言いますが、[[カルヴィン]]派のミサに近づけるという意向がありました。」&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;quot;Je crois ne pas me tromper en disant que l'intention de Paul VI, et de la nouvelle liturgie qui porte son nom, c'est de demander aux fideles une plus grande participation a la messe, c'est de faire une plus grande place a l'Ecriture et une moins grande place a tout ce qu'il y a, certains disent &amp;quot;de magique&amp;quot;, d'autres &amp;quot;de consecration consubstantielle&amp;quot;, transsubstantielle, et qui est la foi catholique. Autrement dit, il y a chez Paul VI une intention ecumenique d'effacer -- ou du moins de corriger, ou du moins d'assouplir -- ce qu'il y a de trop &amp;quot;catholique&amp;quot;, au sens traditionnel, dans la messe, et de rapprocher la messe catholique, je le repete, de la messe calviniste (...)&amp;quot;.日本語訳はトマス小野田圭志神父による&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、パウロ6世の信頼を得て典礼憲章実行委員会（コンシリウム）の事務長として新しいミサを作るために働いた中心人物であったアンニバレ・ブニーニ神父は、自分の作った新しいミサについてこう言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:「教会は、霊魂への愛と別れた私たちの兄弟たちが一致の道へと至るように全てをしようと言う望みとに導かれ、（[[プロテスタント]]たちにとって） 躓きや気に入らないかもしれない危険の陰とでもなるかもしれないものは全ての石を取り除いた&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;quot;L'Eglise a ete guidee par l'amour des ames et le desir de tout faire pour faciliter a nos freres separes le chemin de l'union, en ecartant toute pierre qui pourrait constituer ne serait-ce que l'ombre d'un risque d'achoppement ou de deplaisir.&amp;quot; (Annibale Bugnini, Documentation Catholique du 4 avril 1965)&amp;lt;/ref&amp;gt;。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙にも、同様にこう語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:「私たちは私たちのカトリックの祈りから、カトリックの典礼から、別れた兄弟達、つまりプロテスタントたちにとって、躓きの陰となるかもしれないものは全て取り除かなければならない&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;quot;We must strip from our Catholic prayers and from the Catholic liturgy everything which can be the shadow of a stumbling block for our separated brethren that is for the Protestants.&amp;quot; (Archbishop Annibale Bugnini, L'Osservatore Romano, March 19, 1965)&amp;lt;/ref&amp;gt;。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ローマ教皇庁]]の公式資料のフランス語版であるドキュマンタシオン・カトリック（Documentation Catholique）の表紙には、「新しいミサを一緒に作ったオブサーバーの6人のプロテスタントの[[牧師]]らが、パウロ6世とともに写っている写真」が掲載されたことがある。オブサーバーとして積極的に働いたテゼのマックス・チュリアンは新しいミサについて次のように述べた。「この新しくなったミサにおいて、[[福音派]]のプロテスタントたちを困らせるようなものは全くない。」&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;quot;Dans cette messe renovée, il n'y a rien qui puisse vraiment géner les protestants évangeliques.&amp;quot; (Max Thurian dans La Croix du 30 mai 1969)&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 新しいミサで変更された主な点 ==&lt;br /&gt;
新しいミサによる最も大きな変更は、それまで[[ラテン語]]でのみ執り行われていた[[ミサ]]式文を、各国の言語で執り行われるようになったことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それ以前に、[[教皇]][[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピオ12世]]は典礼の大切さを強調し、[[1947年]]の回勅『メディアトル・デイ』では「複数の典礼儀式で母国語の使用が会衆にとって有益であるかも知れない」ことを示唆しつつ、同時に俗語の使用の許可は[[ローマ教皇庁]]のみが持つ&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.vatican.va/holy_father/pius_xii/encyclicals/documents/hf_p-xii_enc_20111947_mediator-dei_en.html ''Mediator Dei'']&amp;lt;/ref&amp;gt;とした。ピオ12世は、[[聖土曜日]]の復活の徹夜祭における[[洗礼]]の約束の更新を各国語ですることを許可したことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[第2バチカン公会議]]では、1963年12月4日『[[典礼憲章]]』（Sacrosanctum Concilium&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.vatican.va/archive/hist_councils/ii_vatican_council/documents/vat-ii_const_19631204_sacrosanctum-concilium_en.html ''Sacrosanctum Concilium'']&amp;lt;/ref&amp;gt;が発表されたが、それによると、『典礼憲章』36 §1には原則として「[[ラテン語]]の使用は、ラテン典礼様式において遵守される」とある。また『典礼憲章』36 §2によれば、「国語の使用も可能である」&amp;lt;ref&amp;gt;§2 しかし、ミサにおいても、[[秘跡]]授与においても、また典礼の他の分野においても、国語の使用は人々のために非常に有益な場合が少なくないため、より広範囲にわたって国語を使用することも可能である。それは特に、朗読、訓戒、祈願と聖歌の中のあるものに、次の各章中で個々に定める規定によって適用することができる。&amp;lt;/ref&amp;gt;と定められた。とはいえ、原則はラテン語の遵守であり、国語訳の使用は認可の下に&amp;lt;ref&amp;gt;『典礼憲章』36 §4 ラテン文の国語訳が典礼に使用される場合、上述の地域所轄の教会権限所持者によって認可されなければならない。&amp;lt;/ref&amp;gt;なされるべきものとされたが、現実には、世界中で各国語で新しいミサが捧げられるようになった。ただし原則は、司祭は常にどこででもラテン語でミサをすることが許されている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.vatican.va/roman_curia/congregations/ccdds/documents ''Redemptionis Sacramentum'', 112]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&amp;lt;!-- 日本では、この規定が無視され、ラテン語で新しいミサを捧げることは、事実上禁止されている&amp;lt;ref&amp;gt;「鹿児島カトリック教区報 2001年9月」を参照&amp;lt;/ref&amp;gt;。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 廃止された点 ===&lt;br /&gt;
* 以前の奉献文（Offertorium）のほとんどの祈りが廃止された。&lt;br /&gt;
* [[三位一体]]への祈りがほとんど廃止された。&lt;br /&gt;
* ミサの贖罪的目的についての言及がほとんど削られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 省略された点 ===&lt;br /&gt;
* 多くの十字架の印、跪き、イエズスの名前における会釈、[[聖体]]を触れた後での指の清めなどが省略された。&lt;br /&gt;
* ミサにおける司祭の個人的な祈りは省略された。&lt;br /&gt;
* 以前まで3枚であった祭壇布が1枚に省略され、[[聖遺物]]を置く義務も省略され、名前も「祭壇 altare」から「食卓 mensa」に変わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 変更された点 ===&lt;br /&gt;
* [[聖変化]]の言葉が変更され、聖変化が歴史的叙述となった。&lt;br /&gt;
* 司式司祭の個人的な行為よりも、信徒の司祭職による記念に強調が移行した。&lt;br /&gt;
* 司祭の小声でする祈りは全て大きな声ですることに変更された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 追加された点 ===&lt;br /&gt;
* 今まで唯一であったローマ・カノン（典文）に加えて3つの別の奉献文（Prex Eucharistica）が付け加えられた。&lt;br /&gt;
* 今まで女性が立ち入ることが禁止されていた至聖所で女性が典礼奉仕することが出来るようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 新しいミサに対する好意的評価 ==&lt;br /&gt;
* テゼのマックス・チュリアン「おそらく、（新しいミサの）実りの一つは、非カトリックの共同体もカトリック教会がするのと同じ祈りで聖餐を祝うことが出来るようになることだろう。神学的にそれは可能である。」&amp;lt;ref&amp;gt;Max Thurian dans La Croix du 30 mai 1969&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 新しいミサに対する批判 ==&lt;br /&gt;
=== ベネディクト16世教皇 ===&lt;br /&gt;
[[教皇]][[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]は、[[枢機卿]]の頃から新しいミサについてこう語ってきた。&lt;br /&gt;
* 「[[第2バチカン公会議]]の典礼改革の各段階は、真のアジョルナメントであったかどうか、むしろそれは典礼の凡俗化でなかったかどうか、どこまで司牧的に賢明であったか、もしやその逆で、軽はずみではなかったか、じっくりと見ていきたい・・・。」&amp;lt;ref&amp;gt;『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』158ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「ラッツィンガーによれば、まさに典礼の分野において ----- 専門家たちの研究にしろ、実際的適応にしろ ----- 『'''第2バチカン公会議の真正の憲章が言っていることと、それが理解され適用されるやり方との間の差異の最も著しい一例が確かめられる。'''』」&amp;lt;ref&amp;gt;『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』161ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「今までなされてきた合理的平準化や、漠然とした論点など、カトリック典礼を村の寄り合い並に引き下げ、くだらないレベルに低下させようとする司牧的幼稚症に対して、もっと果断に反対しなければならない。既に実行されている改革も、特に定式書に関してはこの観点から見直しがなされるべきである。」&amp;lt;ref&amp;gt;『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』159ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「時として身震いするほど陳腐で平凡な趣向によってつくられた、愚鈍で退屈な公会議後のある種の典礼」&amp;lt;ref&amp;gt;『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』161ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「カトリック者にとって、典礼は共通の母国であり、自分のアイデンティティの源泉そのものである。このためにも典礼は、祭式を通じて神の聖性が顕現されるのだから、&amp;quot;あらかじめ設定され&amp;quot;、&amp;quot;何ものにも煩わされるもの&amp;quot; でなければならないのである。ところが、&amp;quot;規則に縛られた古くさい厳格さ&amp;quot; と呼ばれ、&amp;quot;創造性&amp;quot; を奪うと非難された典礼に対する反発は、'''典礼をも &amp;quot;手作り&amp;quot; の渦の中に巻き込んで、私たちの凡庸さに見合うものにし、凡俗化した'''。」&amp;lt;ref&amp;gt;『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』166ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「パウロ6世のミサ典書は、司式者が典礼の中にあれこれの要素を自由に選択する或いは導入することができるということを規定しており、それ自体で誤った創造性への扉を大きく開けてしまっている。」&amp;lt;ref&amp;gt;ラッツィンガー枢機卿とフィリップ・マクサンスとの対話 ロム・ヌヴォ誌（日本語訳はトマス小野田圭志神父による）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「教皇権力の典礼分野までの拡大のために、基本的に教皇は典礼に関して、特に教皇が公会議の決定に基づいて行為する場合は、全能であるかのような印象を与えています。この印象の結果は特に第2バチカン公会議後に目に見えています。それは典礼が与えられたものであって自分の思いのままに変えることの出来ることではないということが、西方カトリック者の意識の中から完全に消え失せてしまいました。しかし1870年[[第1バチカン公会議]]は教皇を絶対君主としてではなく、啓示された神の御言葉に従順な保護者として定義したのです。'''教皇の権能の正当性は、とりわけ教皇が信仰を伝えると言うことに縛られています'''。信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実さ典礼において特別な仕方で関わってきています。'''いかなる権威当局も典礼を「作り上げる」ことは出来ません。教皇ご自身は典礼の同質的な発展、典礼の完全性とその同一性の永続のための謙遜なしもべに過ぎないのです'''。」&amp;lt;ref&amp;gt;ラッツィンガー枢機卿『典礼の精神』&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「第2バチカン公会議後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、捏造された典礼が来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨てさり、その代わりに、丁度制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物を置いた。ガンバーは、真の預言者の警戒と真の証人の勇気とを持って、この捏造（falsification）に反対した。そして、彼の信じられないほど豊かな知識をもって、疲れを知らずに私たちに真の典礼の生きる充満性について教えてくれた。」&amp;lt;ref&amp;gt;モンシニョール・クラウス・ガンバー（Monsignor Klaus Gamber）の「ローマ典礼の改革」Die Reform der Römischen Liturgie のフランス語版のために書かれたラッツィンガー枢機卿の「序言」（[http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/fd765c886012be88a582aae25596e3f6 日本語訳]はトマス小野田圭志神父による）[http://www.barroux.org/docum/RATZINGER_REF.pdf TEXTE du cardinal Ratzinger paru en tête de l’édition française de La Réforme liturgique en question (Die Reform der Römischen Liturgie) par Mgr Klaus Gamber]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「私たちが今日経験している教会の危機は、『あたかも神が存在していないかのような（etsi Deus non daretur）』の原則に従って行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。」&amp;lt;ref&amp;gt;ベネディクト16世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 164ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「多くの地域で、新しいミサ典礼書の規定が忠実に守られなかったためです。それどころか、実際に、新しいミサ典礼書が『典礼を創造的に行うこと』を正当化し、さらには要求しているとまで考えられたからです。この『典礼を創造的に行うこと』は、しばしば耐えがたいしかたで典礼をゆがめました。わたしは経験から述べています。わたしもあの希望と混乱に満ちた時期を体験したからです。そしてわたしは、典礼を勝手にゆがめることが、教会の信仰に完全なしかたで根ざした人々をどれほど深く傷つけたかを目にしてきました。」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message242.htm 教皇ベネディクト十六世の全世界の司教への手紙 1970年の改革以前のローマ典礼の使用に関する「自発教令」の発表にあたって]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== モンシニョール・クラウス・ガンバー ===&lt;br /&gt;
クラウス・ガンバー師は、ドイツ人のカトリック典礼学者であり、彼の著作はヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿（当時）に大きな影響を与えた。ベネディクト16世の自発教書『スンモールム・ポンティフィクム』の成立に学問的インスピレーションを与えた人物であるとされる。([http://de.wikipedia.org/wiki/Klaus_Gamber Klaus Gamber])&amp;lt;ref&amp;gt;[http://en.wikipedia.org/wiki/Klaus_Gamber His critical work was praised by Cardinal Joseph Ratzinger and he is credited for being one of the academic inspirations behind the motu proprio Summorum Pontificum, allowing broader use of traditional liturgy.]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 「パウロ6世がそうするまで、教皇たちは固有の意味におけるミサ式次第（Ordo Missae）には一切変化を加えたことがない。・・・今では、私たちの足元に瓦礫を見つめている。トリエントミサの瓦礫ではなく、あれほど長い期間にわたって成熟まで発展し成長してきた古代ローマ典礼様式の瓦礫である。&amp;lt;ref&amp;gt;モンシニョール・クラウス・ガンバー「ローマ典礼の改革」Die Reform der roemischen Liturgie &amp;quot;... and we now contemplate at our feet the ruins, not of the Tridentine Mass, but of the ancient Roman Rite which had developed and grown to maturity during that long period.&amp;quot; 英語版p. 26（[http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/fd765c886012be88a582aae25596e3f6 日本語訳]はトマス小野田圭志神父による）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「1969年の新しいミサ式次第の発表は、新しい典礼様式を創造した。言い換えると、聖伝の典礼様式は単に改正されたばかりではなく、むしろ完全に廃止された。そして数年後には、事実上、聖伝の典礼様式は禁止された。・・・典礼様式は「教会の規律と統治」というカテゴリーには入らない。更に付け加えることができるのは、カトリック教会法典を含めて、教皇には教会の最高牧者として聖伝の典礼様式を廃止する権能があると述べられている文章は一つも存在していない。事実、教皇にたった一つの地方の典礼の伝統を変える権威があるなどと述べているような文書は何処にも無い。・・・従って、著名な神学者であるスアレス（Suarez 1617年没）は、やはり神学の権威であるカイェタノ（Cajetan 1634年没）を引用して「もしも教皇が自分の義務であるにもかかわらず、教会の神秘体と全き交わりを保たなかったとしたら、たとえばもしも教皇が全教会を破門したとしたら、或いは'''もしも教皇が使徒継承の聖伝として保たれてきた教会の典礼様式を全て変えてしまったとしたら」彼は離教的（schismaticus）となるだろう'''という立場を取っている。・・・確実な史実によれば、[[パウロ6世]]がそうするまで、私たちが目前にしているような典礼形式における根本的な変化の型を導入した教皇はただの一人も存在していない。事実、典礼において教皇によって導入された極めて小さい変化であったとしてもすぐに受け入れられたことは決してなかったということを私たちは述べなければならない。・・・1969年のミサ式次第は典礼様式を変えたのみならず、典礼暦年や諸聖人の祝日を大幅に変えてしまった。一つ二つの祝日を付け加えることは、それ自体としては、典礼様式を変えることではない。しかし無数の変更を導入し、聖伝の典礼形式は形を全く変えてしまった。」&amp;lt;ref&amp;gt;モンシニョール・クラウス・ガンバー「ローマ典礼の改革」Die Reform der roemischen Liturgie（[http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/fd765c886012be88a582aae25596e3f6 日本語訳]はトマス小野田圭志神父による）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「私たちは東方教会にも、西方教会にも、会衆と対面して versus populum 儀式などというものは存在していなかったことと言うことができるし充分に証明することもできる。むしろ存在していたのは、祈る時に東方を向くということだけであった。」&amp;lt;ref&amp;gt;モンシニョール・クラウス・ガンバー「ローマ典礼の改革」Die Reform der roemischen Liturgie 英語版p. 77（[http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/fd765c886012be88a582aae25596e3f6 日本語訳]はトマス小野田圭志神父による） [http://www.sacredarchitecture.org/pubs/saj/articles/biblical_roots.php The Biblical Roots of Church Orientation] by Helen Dietz]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「典礼の歴史においても神学においても社会学的にもいかなる根拠もないが故に、会衆と対面した versus populum ミサの儀式というのは徐々に姿を消すべきである。」 &amp;lt;ref&amp;gt;モンシニョール・クラウス・ガンバー「ローマ典礼の改革」Die Reform der roemischen Liturgie 英語版 p. 92（[http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/fd765c886012be88a582aae25596e3f6 日本語訳]はトマス小野田圭志神父による）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「今日、私たちは、教会の聖伝ほぼ2000年の廃墟を前にして立っている。私たちはこう思わざるを得ない。多くの改革は教会の聖伝に損害を与え、それはそれを元に戻すのが難しいほどだ。今日、かくも酷い破壊の後に、聖伝の秩序を再建築するのが可能なのかと疑問にさえ思う。」&amp;lt;ref&amp;gt;モンシニョール・クラウス・ガンバー「ローマ典礼の改革」Die Reform der roemischen Liturgie 英語版 p. 95（[http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/fd765c886012be88a582aae25596e3f6 日本語訳]はトマス小野田圭志神父による）&amp;lt;br/&amp;gt;更にまた「曖昧さなくこう言う必要がある。私たちが知っていたローマ典礼様式は、もはや存在していない。それは破壊された。」ジョセフ・ジュリノ著『典礼の明日』Joseph Gelineau SJ, Demain la liturgie Paris: Ed. du Cerf, 1979, p.10. という証言もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
===オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿===&lt;br /&gt;
オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿とはパウロ6世教皇に新しいミサについて手紙を書きこう述べた。&lt;br /&gt;
（以下、手紙文は[[#1970年の新しいミサ典書]]の節と一部重複するため、残りの部分も[[#1970年の新しいミサ典書]]の節に移動させて削除しました）--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新しいミサの神学的な問題 ===&lt;br /&gt;
*'''「十字架のいけにえ」から「神の民の集会」'''&lt;br /&gt;
:新しいミサでは、[[第2バチカン公会議]]の提示する新しい司祭職としての「宣教」する「神の民」が典礼を執行する。職務的司祭は、神の民の集会の座長であるが、ミサは神の民の集会であり、信徒がミサを捧げるのであって、信徒が主体的に行動すべきであるとされる。従って、総則の第7条にはこうある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:* 主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、司祭を座長として、'''一つに集まった神の民の集会である'''。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」（マタイ18:20）というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される&amp;lt;ref&amp;gt;人間こそ、われわれの全叙述の中心点」（『[[現代世界憲章]]』3）であり「地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならない」（『現代世界憲章』 12）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''「贖罪のいけにえ」という概念の排除'''&lt;br /&gt;
:[[エキュメニズム]]のために、新しいミサからは「贖罪のいけにえ」という概念が体系的に排除されている。[[マルティン・ルター]]に始まって[[プロテスタント]]にとって、「ミサ」はいけにえではなく晩餐であり、全て信徒は「司祭」である。新しいミサはそれに合わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 翻訳の問題 ===&lt;br /&gt;
[[聖変化]]の言葉が各国語に訳されるときの誤りの問題が[[1967年]]から生じていた。典礼英語国際委員会 International Commission on English in the Liturgy (ICEL)による英語訳に始まって、ほぼ世界中で同じ誤りが犯されてきていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
誤った翻訳とは、御血の聖変化の言葉の部分の翻訳である。[[ラテン語]]では、 pro multis （多くの人々のために）となっているところを、「全ての人々のために」とほぼ全世界で訳されてきた。（例外は[[ポルトガル語]]、[[ポーランド語]]、[[日本語]]訳のみ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]]11月、アリンゼ[[枢機卿]]はこれを訂正することを求めた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.d-b.ne.jp/mikami/fp061213.htm 「あなたたちのためそしてすべての人のため」はゴミ箱行きとなる]&amp;lt;br&amp;gt;[http://www.remnantnewspaper.com/Archives/archive-2006-1130-pro-multis.htm Rome Corrects Error...After 40 Years]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ミサの式次第の翻訳 ===&lt;br /&gt;
ラテン語の翻訳から各国語に翻訳をする時に直訳ではない事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「Liturgiam authenticam」においても指摘されているように多くの翻訳の問題がある&amp;lt;ref&amp;gt; http://www.vatican.va/roman_curia/congregations/ccdds/documents/rc_con_ccdds_doc_20010507_liturgiam-authenticam_en.html&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本では「日本における適応」として認可を受けるようにバチカン（[[ローマ教皇庁|教皇庁]]）と交渉中である&amp;lt;ref&amp;gt;[http://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/2007/02/post_5f3a.html 司教の日記 新潟司教の毎日の活動から]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本における新しいミサ ==&lt;br /&gt;
=== 日本語への翻訳 ===&lt;br /&gt;
「新しいミサ」が発表されて日本語に翻訳されると「悪文なので驚いた。へんないいまわし、敬語を使わないこと」「あまりにもチグハグ」「信者でない人が味わう忘れがたい印象、信仰に導くミサの本質的なものが次第に失われていく」など、国語化されたミサ式文に寄せる不満が多く出された&amp;lt;ref&amp;gt;カトリック新聞 昭和45年（1970年）4月19日 第2128号（1）&amp;lt;br/&amp;gt;「声」欄には読者からの声として「やっぱり「あなたをおいてだれのところに行きましょう」という、なんだか芝居役者のセリフのような言葉を公式の儀式で唱える祈りにされているのが残念です」などという意見も掲載された。&amp;lt;/ref&amp;gt;。「あらゆる苦情殺到の中で」&amp;lt;ref&amp;gt;カトリック新聞 昭和45年（1970年）2月22日 第2120号（1）&amp;lt;/ref&amp;gt;日本典礼司教委員委員長である長江恵[[司教]]は1970年春に「新しいミサの典礼とその意義」という講話を行い「一番悩んでいるのは言葉の問題である」「翻訳には限界があるからである」&amp;lt;ref&amp;gt;カトリック新聞 昭和45年（1970年）4月19日 第2128号（2）&amp;lt;/ref&amp;gt;という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新しいミサが導入されてからほぼ40年がたった[[2007年]]には、2月19日から23日まで開かれた日本司教評議会の司教総会（会長は野村司教）で一番時間がかかった問題が、典礼式文翻訳の課題であった。例えば Et cum spiritu tuoの訳&amp;lt;ref&amp;gt;典礼秘跡省は、spirituは単に「霊」ではなく、司祭が叙階の時に受けた霊の「たまもの」を浮かび上がらせるような言葉の使用を指示。言葉を補って翻訳すると「原文との相違」が生じてしまう。[http://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/2007/02/post_5f3a.html 司教の日記 新潟司教の毎日の活動から]&amp;lt;/ref&amp;gt;、mea culpaの訳、Sursum cordaの訳など、ラテン語を使用に耐える日本語に翻訳することには困難が多い&amp;lt;ref&amp;gt;[http://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/2007/02/post_5f3a.html 司教の日記 新潟司教の毎日の活動から]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 手による聖体拝領 ===&lt;br /&gt;
「日本司教様評議会は1970年5月の定例総会で[[聖体拝領]]に際して'''聖体を手に授ける'''ことを決定して教皇庁に申請していたところ、典礼聖省長官ベンノ・グート枢機卿から、信者に聖体を手に授けるための指針が届いた。」&amp;lt;ref&amp;gt;カトリック新聞 昭和45年（1970年）10月11日 第2151号（1）&amp;lt;/ref&amp;gt;それによると、&lt;br /&gt;
# 日本大司教評議会の管轄地域ではそれぞれの司教は、自らの判断と責任において、管轄[[教区|司教区]]内で聖体拝領の新しい様式の導入を許可することが出来る。&lt;br /&gt;
# 聖体拝領の新しい方法は従来の慣習を排除してしまうような仕方で押しつけられてはならない。&lt;br /&gt;
# 特に大切なことは、それぞれの信者は聖体を舌で受けて拝領できるように配慮する必要がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし現実は、&amp;lt;!-- 2009年現在、日本のほとんどの小教区で手による聖体拝領がほぼ強制させられている。（地方によって違うのかもしれませんが、「日本のほとんどの小教区で」という事実はありません）--&amp;gt;多くの司教区では2009年5月から新型インフルエンザ対策という名目で口による聖体拝領は事実上禁止された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.ignatius.gr.jp/flu.html 新型インフルエンザに関するお知らせ]&amp;lt;br/&amp;gt;http://www.tokyo.catholic.jp/text/diocese/oshirase/090221influenza.doc&amp;lt;br/&amp;gt;[http://www.kyoto.catholic.jp/new/topnews/20090501kyouku.pdf 新型インフルエンザ・京都教区感染防止司牧指針]など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
その後、1990年代から2000年代以降、司教区や小教区でさまざまな形態・様式のミサが試みられている。&lt;br /&gt;
;「手作りのミサ」&lt;br /&gt;
:鹿児島司教区の教区長である郡山司教は、200名あまりの若者で作った「手作りのミサ」「東京パワー日本の中心でミんなとつながって素直に感謝をサさげよう」～キミとボクとドキドキミサ～について、教会の未来は明るい！と高く評価している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sdemo.net/pken/Blog/archives/2008/9/14 それでも Blog! 24時間司教 東京パワー]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;「踊るミサ」と「祝福の儀（食卓）」&lt;br /&gt;
:幸田和生神父（当時・現[[カトリック東京大司教区|東京大司教区]]補佐司教）は、東京教区教会学校リーダー研修会で 「子どもと共に捧げるミサ」 の工夫についての話の中で、「踊るミサ」 をはじめとして、 子供自身の信仰の表現をさまざまに工夫してミサの中に取り込むと講演した。さらに、初聖体を受けていない子や、 受洗していない子のために、 ミサとは区別した上で、 手づくりのパンで 「祝福の儀 (食卓) なるものを試みた」。このような試みに感激をしたと好意的に紹介している&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.tokyo.catholic.jp/text/kyokunews/1992/kn098b.htm&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;「能」を取り入れたミサ&lt;br /&gt;
:1993年5月14日には真生会館で、日本の伝統芸能である「[[能]]」を取り入れたミサが行われた。そこでは、ミサ中の聖歌の部分が、「能」の形式によって歌われた&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.tokyo.catholic.jp/text/kyokunews/1993/kn104.htm&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;「あっちこっちミサ」&lt;br /&gt;
:「あっちこっちミサ」とは、「全国各地の教区で、同じ日時、同じ典礼でミサを捧げよう！という趣旨で始った、青年たちのプロジェクト」である。「普段、教区ごとに分かれて活動している青年たちが、『離れていても自分達は信仰で繋がっている』ということを感じ、一致の恵みを喜び合うミサ」とされる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://attikottimisa4.xxxxxxxx.jp/about.html 第4回 あっちこっちミサ]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://attikottimisa4.xxxxxxxx.jp/tenrei.html 第4回 あっちこっちミサ（当日の典礼）]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;「南無アッバミサ」&lt;br /&gt;
:「南無アッバミサ」とは、井上洋治神父（東京教区）が、故[[白柳誠一]][[枢機卿]]の賛同を得て、日本人にあった福音の形を模索するための運動である「風の家」という活動の中で始められたミサ。典文（奉献文）以外のミサ通常文の一部を、カトリックではない人々が親しみやすくするために「南無アッバ」というフレーズを入れるなどして変えている&amp;lt;ref&amp;gt;カトリック新聞2009年12月13日（4032）号及び2009年12月13日（4033）号「東京教区・井上洋治神父の模索（上）（下）」&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://blog-imgs-41.fc2.com/n/a/m/namuabba/sidai-inori.htm 「南無アッバミサ」式次第]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.papalencyclicals.net/Pius05/p5quopri.htm 聖ピオ五世の『クォー・プリームム』''Quo primum''の英語訳]&lt;br /&gt;
* [http://www.rtforum.org/lt/lt92.html ラッツィンガー枢機卿『典礼の精神』に関する書評]&lt;br /&gt;
* [http://sacramentary.blogspot.com/2007/06/reform-of-roman-liturgy-msgr-klaus.html The Reform of the Roman Liturgy (Msgr. Klaus Gamber) -- Where the modern Liturgy went wrong By Michael Davies]&lt;br /&gt;
* [http://www.westernorthodox.com/novusordo An excerpt from The Reform of the Roman Liturgy: Its Problems and Background, by Monsignor Klaus Gamber]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文献 ==&lt;br /&gt;
* Davies, Michael, [http://www.latin-mass-society.org/msshst.htm ''A Short History of the Roman Rite''] (ローマ典礼様式の短い歴史), Rockford (IL), TAN Publishers 1997.&lt;br /&gt;
* Bugnini, Annibale, ''The Reform of the Liturgy 1948-1975''（典礼改革 1948年-1975年）. ISBN C814615716&lt;br /&gt;
* Gamber, Klaus, ''The Reform of the Roman Liturgy. Its Problems and Background''（ローマ典礼の改革 その問題と背景）. Roman Catholic Books (U.S.) 1993. ISBN 978-0-912141-05-3.&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:あたらしいみさ}}&lt;br /&gt;
[[Category:カトリック|あららしいみさ]]&lt;br /&gt;
[[Category:キリスト教の礼拝・典礼・奉神礼|あたらしいみさ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ミサ|あたらしいみさ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[cs:Mše Pavla VI.]]&lt;br /&gt;
[[de:Novus Ordo Missae]]&lt;br /&gt;
[[en:Mass of Paul VI]]&lt;br /&gt;
[[fr:Rite romain]]&lt;br /&gt;
[[id:Misa Paulus VI]]&lt;br /&gt;
[[ko:바오로 6세 미사]]&lt;br /&gt;
[[nl:Mis van Paulus VI]]&lt;br /&gt;
[[pl:Zwyczajna forma rytu rzymskiego]]&lt;br /&gt;
[[ru:Novus Ordo Missae]]&lt;br /&gt;
[[sv:Paulus VI:s liturgi]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Catholic</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://44.233.173.13/mediawiki/index.php?title=%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E3%83%90%E3%83%81%E3%82%AB%E3%83%B3%E5%85%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0&amp;diff=183199</id>
		<title>第二バチカン公会議</title>
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				<updated>2013-03-22T08:07:24Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Catholic: ページの作成：「'''第2バチカン公会議'''（だい2バチカンこうかいぎ、Concilium Vaticanum Secundum 1962年～1965年）は、教皇[[ヨハネ...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''第2バチカン公会議'''（だい2バチカンこうかいぎ、Concilium Vaticanum Secundum [[1962年]]～[[1965年]]）は、[[ローマ教皇|教皇]][[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]のもとで開かれ、後を継いだ[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]によって遂行された[[カトリック教会]]の[[公会議]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議では、公会議史上初めて世界五大陸から参加者が集まり、まさに普遍公会議というにふさわしいものとなった。教会の現代化（アジョルナメント）をテーマに多くの議論がなされ、以後の教会の刷新の原動力となるなど、第2バチカン公会議は[[20世紀]]の[[カトリック教会]]において最も重要な出来事であり、現代に至るまで大きな影響力をもっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 開会まで ==&lt;br /&gt;
[[1869年]]の[[第1バチカン公会議]]では、[[カトリック教会]]が[[フランス革命]]によって生まれた近代革命世界を否定するというスタンスがとられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ピオ11世===&lt;br /&gt;
[[1923年]][[5月23日]]、教皇[[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピウス11世]]は、枢機卿会議で、1870年に中断されたバチカン公会議を継続させるために公会議を召集することは適宜か否かを枢機卿たちに問うた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このピオ11世の質問に対し、枢機卿たちはほぼ満場一致で公会議に反対した。特にビヨ枢機卿は、司教たちの深い見解の違いがあること、意見がまとまらない危険があること、教会に革命を起こそうとしている近代主義者たちによって公会議が操作される危険があること、伝統的なやり方よりも、民主的な慣行に適応する論争と宣伝活動が導入される危険があることを指摘した&amp;lt;ref&amp;gt;Giovanni CAPRILE, SJ, ''Il concilio Vaticano II, Cronache del concilio Vaticano II'', Civilta ccattolica, Roma, vol.V, 1968, pp 681-701&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第1次世界大戦後の世界で、もはや[[カトリック教会]]だけが古色蒼然とした形をたもっていることは出来なかった。特に司牧の第一線で働く聖職者、宣教者、信徒たちの間で教会の現代化の必要性は痛感されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ピオ12世===&lt;br /&gt;
[[1948年]]、[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]は、ピウス11世の抱いていた公会議のアイデアを検討していた。ルフィニ枢機卿とオッタヴィアーニ枢機卿は、公会議が新しい近代主義に染まった異端神学を排斥する適切なチャンスだと考えた。そこでピウス12世は、65人の司教たちに打診したが、彼らの提案は常軌を逸脱していた。そこでピウス12世は、公会議はむしろ危険である、教会を窮地に落とすと判断し、公会議開催の考えを放棄した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ヨハネ23世===&lt;br /&gt;
[[1959年]][[1月25日]]、教皇[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]は門外の聖パウロの修道院をふらりと訪れ、17人のローマ枢機卿の前で'''突然'''、公会議を召集することを告げた。これは教皇自身が下したもので、'''この決断は長い熟考の結果ではなく「予期しないところにふと訪れた春の木々の芽生えのように生まれた'''&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社283ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この突然の公会議開催の発表は大きい混乱を引き起こした&amp;lt;ref&amp;gt;Giuseppe Alberigo, ''Jean XXIII devant l'histoire'', Seuil, 1989, p204, notes 17, 18.&amp;lt;/ref&amp;gt;。多くの枢機卿らは、司教たちがマスメディアの圧力を受ける危険を指摘して、公会議招集を止めようと促した。その理由は、[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]は、以前、ブルガリアの教皇使節(在位：1925-1934)をしていたが、当時から「帰一東方教会」が、離教の正教徒らにしている帰一宣教活動に反対しており&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.angelusonline.org/print.php?sid=708 letter to Christo Morcefki]&amp;lt;/ref&amp;gt;、新しいエキュメニズムを考えていたからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神学者の間では、[[カール・ラーナー]]や[[イヴ・コンガール]]などのように「近代社会で人類が獲得した経験知を伝統的なカトリック信仰と調和させる」ことを目指した一団と、ヨーゼフ・ラッツィンガー（後の[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]）や[[アンリ・ドゥ・リュバック]]のように「古代教会の信仰にこそ現代教会の活力の源泉が見出されるはずだ」とする一団という二つの大きなグループが生まれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[第1バチカン公会議]]で本来話し合われるはずであった[[教会論]]の議論（これらは[[普仏戦争]]の勃発によって中断を余儀なくされた）を行うことで教会のアイデンティティーを再確認することの大切さも十分認識されていた。このような流れの中で、つなぎの老教皇とみられていた[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]が公会議の召集を発表したことは、[[カトリック教会]]と全世界にとって驚きと同時に大きな期待を持って迎えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==準備期間==&lt;br /&gt;
会議の準備に2年が費やされた。その間、まず世界中の[[カトリック教会]]関係者から公会議の議題に関する意見書が集められ、次に教皇に任命された10の各準備委員会がそれらの意見書を検討したうえで、公会議の議題の草案（ラテン語で単数形schema と書き「スケーマ」と発音する、複数形は、schemata で「スケーマタ」と発音する。フランス語では、単数形 schéma （複数形 schémas ）と書き「シェーマ」と発音する）を作成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===前準備委員会（commissio antepraeparatoria）===&lt;br /&gt;
[[1959年]][[5月17日]]、教皇[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]は、当時国務長官であったタルディーニ枢機卿を委員長として、前準備委員会（commissio antepraeparatoria）を任命した&amp;lt;ref&amp;gt;この中にはアルカデオ・ララオナ、ピエトロ・パラッツィーニ大司教、ディノ・スタッファ大司教、ポール・フィリップ神父などがいた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1959年]][[6月18日]]、前準備委員会は、全世界の司教、修道会、カトリック大学などに公会議で討論すべき話題の提案を求めた。司教たちのからの返答によれば、カトリックの教理的な明確さを要求した司教は殆どいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1960年]][[6月5日]]、[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]は、自発教令『スペルノ・デイ・ヌートゥ』Superno Dei Nutu によって、第2バチカン公会議の準備のための10の委員会（commissiones praeconciliares）と3つの事務局が設立された。同時に、これらの委員会の上に、120名から成り立つ「公会議中央準備委員会 (Central Preparatory Commission for the Council)」 を置き、その委員を任命した。公会議中央準備委員会は、世界の司教たちからの提案をもとに 10の準備委員会によって起草された草案を吟味する責任があった&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社284ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1960年]][[6月6日]]、日本の[[土井辰雄]]枢機卿を含める36人の中央準備委員が任命された。中央準備委員会、各委員、顧問（consultor）の数は、その後の任命によって更に拡大し、[[1961年]] 2月までに、710人（内訳は委員393人、顧問317人）に達していた。更に[[1961年]] 12月には、827人となっていた。[[1962年]] 6月まで、中央委員会は多くの会議を開き、公会議の準備を進めていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すでにこの中央準備委員会の内部で、対立する枢機卿たちの闘いが繰り広げられていた。つまり、検邪聖省長官代理[[アルフレド・オッタヴィアーニ]]枢機卿の神学委員会とそれに協調する「ローマ派」と、キリスト者の一致促進のための事務局事務長アウグスティノ・ベア枢機卿とその補佐ヤン・ウィレブランとそれに協調するリベラル派であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===準備委員会顧問名簿===&lt;br /&gt;
[[1961年]][[6月15日]]、中央準備委員会の第1回総会で、[[1960年]]6月に指名された準備委員会の顧問名簿 &amp;lt;ref&amp;gt;Documentation Catholique, 1346, 267 sq. Documentation Catholique, 1367, 67 sq. &amp;lt;/ref&amp;gt;と公会議の規定との間に矛盾があることが告発された&amp;lt;ref&amp;gt;Acta et documenta de concilio Vaticano II apparando; Polygl. Vat. series II (praeparatoira), vol. II, pars I, 316&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
顧問名簿の中で、'''[[イヴ・コンガール]]、[[アンリ・ドゥ・リュバック]]、[[カール・ラーナー]]の少なくとも三人は、教会当局から制裁措置を受けた事があり、本来なら顧問になる資格がなかったにもかかわらず、名簿にその名前が記載されていた'''。しかし、オッタヴィアーニ枢機卿はこの告発を取り上げなかった。教皇がそれを望んでいたのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中央準備委員会の総会===&lt;br /&gt;
[[1962年]][[1月20日]]、中央準備委員会の総会で、オッタヴィアーニ枢機卿は自分の草案「純粋に守るべき信仰の遺産について」を発表した。アルフリンク枢機卿は「一つの哲学派にとらわれている」と批判した。ベア枢機卿は「スコラ哲学的な言い回し」を攻撃した。そこでリエナール、フリンクス、アルフリンク、デフナー、ケーニッヒ、レジェーの進歩派とルッフィーニ、シリ、ララオナ、ブラウンの保守派とが、深刻に厳しく対立していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1962年]][[2月23日]]、[[マルセル・ルフェーブル]][[大司教]]は、これらの対立を調停するように、公会議が二つの種類の文書を作ることを提案している。一つは、保守派のスコラ的で正確な学問的な表現で、現代の誤謬を拒否する「排斥文 canon」付属の草案、もう一つは、進歩派が望むような司牧的で肯定的な短い文書であった&amp;lt;ref&amp;gt;Acta et documenta de concilio Vaticano II apparando; Polygl. Vat. series II (praeparatoira), vol. II, pars II, 417 - 418&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、この提案は何もされず、そのままになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中央準備委員会の典礼についての討議===&lt;br /&gt;
[[1962年]] 3月から4月まで、中央準備委員会の総会では、典礼に関して討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1962年]][[3月27日]]、[[アンニバレ・ブニーニ]]神父の臨席のもと、ララオナ枢機卿はブニーニ神父草案のミサの通常文の改革計画を出席者の教父たちに説明した。ララオナ枢機卿はこの改革に抵抗試みたが、自分の前任者であったガエタノ・チコニャーニ枢機卿が署名していたので、やむなくそうした&amp;lt;ref&amp;gt;ララオナ枢機卿が改革に反対したことは次にある。Annibale Bugnini, La Riforma Liturgica, CLV, Roma, 1997, p41&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この草案は革新的な原則に従って、典礼全体を体系的に改革する計画であった。リベラルな教父たちは賞賛した。デフナーは「中央委員会に提出された全ての草案の中で、最も注目するに値するものの一つである」と賛美した。レルカノもこの草案に賛成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ローマ派」の枢機卿たちは反対した。オッタヴィアーニは「過度な革新に大きく門を開きすぎる」と批判した。ゴッドフレ枢機卿は異議を唱えた。この改革は「キリスト教徒らに驚愕を引き起こす革命的な改革」（オッタヴィアーニ）であり、礼拝を捨て去り聖伝を蔑視するという意味で反典礼的だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1962年]][[3月30日]]、アガジアニアン枢機卿は、宣教国のために自国語の[[ミサ]]を提案した。ルフェーブル大司教は「典礼と典礼様式に関して、司教評議会が法規を制定することができる、という原則が受け入れられると、それがたとえ教皇の承認をもってはじめて許可されるとしても、民族的典礼と国民典礼様式とに回帰してしまう、典礼の一致のための過去の二世紀のすべての努力が無駄になってしまう、芸術とグレゴリオ音楽は没落する、無秩序状態になる危険がある」と指摘した&amp;lt;ref&amp;gt;Acta et documenta de concilio Vaticano II apparando; Polygl. Vat. series II (praeparatoira), vol. II, pars III, 384 385.&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===スーネンス計画===&lt;br /&gt;
[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]は、スーネンスを中央準備委員会員に指名したが、準備作業に全く指針を提供しなかった[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]にとって、秘密裏にスーネンスに73と多すぎる草案を縮小することを任せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スーネンスは、予備草案を全て二つの枠組みで作り直そうとした。教会内部に向けての発言と、教会外部に向けての発言という二つの領域である。このスーネンス計画は、第2バチカン公会議開始前の[[1962年]]4月の終わりには準備完了され、5月中旬には、教皇の命令でこの計画が、少数の有力な枢機卿たちに伝達された。デフナー、モンティーニ、シリ、リエナール、レルカノなどの枢機卿らであった&amp;lt;ref&amp;gt;Giuseppe Alberigo, ''Jean XXIII devant l'histoire'', Seuil, 1989, p191. Etienne Fouilloux, ''Vatican II commence'', Univ. cath. de Louvain, 1993, p149&amp;lt;/ref&amp;gt;。これは予備草案を廃案にすることであった。準備委員会には仕事を続けさせながら、同時にその廃案を他の委員会に任せていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「キリスト教一致促進事務局」===&lt;br /&gt;
「キリスト教一致促進事務局」は、10の下部の委員会に属している専門家らに対して、他の委員会で取り扱っていた議題に関する提案や草案の下書きを、エキュメニズムの観点で作成させていた。同時に、特別草案として、エキュメニズム、信教の自由及びユダヤ人問題に関する草案も準備させた。キリスト教一致促進事務局は、この3つの特別草案をオッタヴィアーニの神学委員会に送ったが、神学委員会は無視した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1962年]][[2月1日]]、[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]は、対立関係にある草案が、オッタヴィアーニ枢機卿の神学委員会およびその他の委員会を通さないで直接中央準備委員会に上がるように定めた。この一つが、信教の自由に関する草案だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中央準備委員会の第7回総会===&lt;br /&gt;
[[1962年]][[6月18日]]、最終総会である中央準備委員会の第7回総会が開かれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1962年]][[6月19日]]、最終会議の2日前、中央準備委員会は対立関係にある二つの草案を討論することになっていた。一つは、オッタヴィアーニ枢機卿が直接作成した神学委員会の「教会と国家との関係と宗教的寛容」に関する草案&amp;lt;ref&amp;gt;本文 9ページと、ピオ9世からピオ12世までの歴代教皇の引用文からなる末尾注が 14ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;である。もう一つは、ベア枢機卿のキリスト教一致のための事務局が草稿した「信教の自由」という草案&amp;lt;ref&amp;gt;本文 15ページと、教会教導権の引用が全くない5ページの末尾注&amp;lt;/ref&amp;gt;である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
枢機卿たちは二つの陣営に分かれて、激論をした。オッタヴィアーニ枢機卿の草案の中心になる関心事は、カトリック信仰の保護であり、真の宗教における市民全員の一致に基礎をおいた世俗の共通善の保全であった。自由とは、真理と善徳のためであって、誤りや悪のためにあるのではない。ベア枢機卿の草案は、すべての場合とすべての人々に信教の自由が適用される、とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリア系、スペイン系、ラテン・アメリカ系の教父らは、オッタヴィアーニの草案に賛成し、アメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、フランスの教父たちは、ベアの草案を支持して、真っ二つに対立していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この準備委員会はほとんどが[[聖座]]のスタッフによって編成されていたが、彼らによって73にのぼる公会議文書の草案（シェーマ、シェマータ）が完成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委員会は多くの草案を変更し、採用されなかった草案もあった。教会法改訂委員会に送り返されたり、他の草案と合体した草案もあった。草案の数は圧縮され縮小され 73から 20に減った&amp;lt;ref&amp;gt;ウィルトゲン神父は75の草案が成立していたという。&amp;quot;After two year' work, ending on the eve of the council with the dissolution of most of these bodies, a total of seventy-five schemas had been prepared. ... the seventy-five schemas were ultimately reduced to twenty. ... It was certain, however, that no other council had had a preparation &amp;quot;so vast, so diligently carried out, and so profound.&amp;quot;&amp;quot; Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, p22.&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[7月13日]]、草案の内、公会議で討議されるべき7つの草案が将来の公会議教父たちに送付された。スキレベークス神父はこの草案を厳しく批判しドイツ語圏の司教たちに広く配布された。これは各国語に訳されて広く読まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[7月20日]]、中央準備委員会の職務は終了した。公会議には[[枢機卿]]団、[[司教]]団や[[修道会]]の長上、顧問神学者団以外にも歴史上初めてオブザーバーとして[[プロテスタント]]諸教会や[[東方正教会]]の代表者たちへの参加が要請された。実際にそれらの代表団がバチカンに到着したことで、議題の一つであった教会の一致（[[エキュメニズム]]）へ向けての機運も高まっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前述の人々を含んだ会議の参加者は史上空前の規模であった。予定参加者は実に2908名に及んだ。実際に第1会期の初めに参加できたのは2540人であり、全会期を通じて参加者は2100人から2300人程度になったが、それ以外にも投票権を持つ参加者（公会議教父）が私的な顧問として招聘していた神学者たちやスタッフを含めるとそれは膨大な数に上っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第1会期（Sessio Prima [[1962年]][[10月11日]] - [[12月8日]]）==&lt;br /&gt;
教会憲章『フマネ・サルーティス』&amp;lt;ref&amp;gt;Constitutio Apostolica &amp;quot;Humanae Salutis&amp;quot;, 1961年12月25日&amp;lt;/ref&amp;gt;により、第2バチカン公会議は1962年に開催されることとされ、自発教令『コンシリウム・ディウ』&amp;lt;ref&amp;gt;Motu proprio &amp;quot;Consilium Diu&amp;quot;, 1962年2月2日&amp;lt;/ref&amp;gt;により、開催の日は10月11日と定められた&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社287ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===開会式（[[1962年]][[10月11日]])===&lt;br /&gt;
1962年10月11日、教皇を中心とした2500人の参加者たち&amp;lt;ref&amp;gt;Herder Korrespondenz 17 (1962/1963), 89ページによれば、第2バチカン公会議開会当日には、2540人の教父（patres concilii 公会議に参加する司教らのこと）が集まったとされる。同史料63ページによれば、当時の参加有権者総数は3043人であった。公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社を参照のこと&amp;lt;/ref&amp;gt;は会場である[[サン・ピエトロ大聖堂]]に集まり、[[ヴィエンヌ公会議]]以来の伝統的なスタイルの儀式によって公会議を開始した。そこには世界86カ国の政府から派遣された使節も参加していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[10月11日]]の荘厳な開会式において[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]教皇は、第2バチカン公会議の目的として教会の信仰の遺産を現代の状況に適合した形で表現し、信徒の一致・キリスト者の一致・世界と教会の一致をはかることだとしつつ「世界の誤謬を糾弾するものではなく、慈悲をもって世界の問題に対処する態度を追求する」公会議とすることを説いた&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 287ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]は、公会議開会演説でその公会議の開催の理由と自分の楽観主義、公会議の方針をこう説明する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「この会議のことは最初、ほとんど思いがけなく私の心に浮かんできたことで、次に、1959年1月25日、聖パウロの回心の祝日に当たってオスチア街道にある聖パウロ大聖堂で、そのまま単純に枢機卿各位の前で発表されたことであります。」&lt;br /&gt;
「日々の使徒的任務を遂行するにあたって、たびたび私の耳に届いて不愉快に思うことがあります。それは信仰の熱心に燃えていながら公平な判断と賢明な思慮を欠いた人々の声であります。この人々は、人類社会の現状を見ては破壊と災難しか見ることが出来ず、過ぎ去った世紀と比べて現代はただただ悪い方に向かってしまったと繰り返し言い続けます。... あたかも世の終りが近づいたかのように、つねに災いしか予告しない不運の預言者に私は絶対に賛成できません。」&lt;br /&gt;
「私たちのなすべきことは、ただこの高価な宝を守って、ひたすら古いことを研究することではありません。...この世界会議が第1にめざす目標は、教会の主要な教えのいくつかを討議することではなく、教父や過去および現代の神学者たちによって伝えられ、当然ここにご列席の皆様が知っておられる事柄を繰り返すことでもありません。...忠実に守られるべき、この確固不動の教えが、現代の要求する方法で探求され、説明されなければ成りません。尊ぶべき教えに含まれている真理、すなわち信仰の遺産そのものとこれを表す方法とは同じではありません。...おもに司牧的な性格を持つ教会の教導の任務にもっともよく合致する表現法でなければならないのです。」&lt;br /&gt;
「誤謬には教会はいつも反対し、時には断固とした厳しさをもって誤謬を断罪しましたが、現代のことについて申しますならば、キリストの花嫁である教会は、人々を厳しく取り扱うよりは、むしろ慈しみの薬を用いていやそうとしています。断罪するよりは、自分の教えの価値を示しながら、現代の要求に応える方が良いと思われます。」&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社 328-338ページの沢田和夫訳による。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;ヨハネ23世は、レジェ、フリンクス、アルフリンク、スーネンス、ケーニヒ、リエナールが共同署名した嘆願書を受け取っていた。嘆願書は、公会議が誤謬を断罪しないことを要求していた。 G Routhier, &amp;quot;Le Cardinal Léger et la préparation de Vatican II&amp;quot;, in Revue d'Histoire de l'Eglise de France, no. 205 (1994): 301.&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===第1回総会（[[1962年]][[10月13日]])===&lt;br /&gt;
第1会期（Sessio Prima）は10月13日の第1回総会（prima congregatio generalis）と共に開かれた。第1回総会は、委員会の委員の選挙が行われるはずだった。10の委員会はそれぞれ25人の委員を持ち、それぞれの委員長は教皇によって、さらに残る各委員会24人の内の8人は教皇によって選ばれ、のこる16人の委員は公会議が選出することになっていた。従って、公会議は計160人の委員を選ぶ予定であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
世界中至る所から来て初めて顔を合わせる司教たちの大半は、お互いを知らず、知っていてもわずかであった。従って、お互いに知らない司教2400人のために、特別専門委員会の委員として誰が適任なのか、聖座は司教たちに提案した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フェリチ枢機卿は参列している各司教たちに対し、選ぶ完全な自由を残しながら、第2バチカン公会議準備委員会の委員の名前のリストを配布した。その理由は、彼らは既に第2バチカン公会議の準備に携わっていたから経験を積んだ専門家だったからであり、自由に適任者を選ぶ助けになったからであった。聖座が選んだ彼らが教父たちによってそのまま選択されることは望ましいことだった。事務総長のフェリチ大司教は、委員たちの選挙に直ぐ入るように教父たちに指示した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし聖座によって予期されていなかった出来事が起きた。公会議は、その初日から、公会議教父たちの大部分は、何か異常なことが起きていると感じた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://fsspxjapan.fc2web.com/op/op14.html ルフェーブル大司教 迷える信徒への手紙 --- 教会がどうなったのか分からなくなってしまったあなたへ --- ]&amp;lt;/ref&amp;gt;。教皇庁のスタッフになる準備委員会によって提案された議事運営方法にリールの司教リエナール枢機卿が異議を唱えたからだ。リエナール枢機卿は、マイクを取ろうとすると、議長であったティスラン枢機卿は形だけの抵抗をした。リエナール枢機卿はマイクを取り大きな声で抗議し、フェリチ枢機卿のリストは司教らの自由を奪う教皇庁からの圧迫であると非難した。リエナール枢機卿は拍手喝采を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公会議事務総長フェリチ大司教はこれに反対の考えだったが、[[ケルン]]のフリンクス大司教が次に演説し、リエナール枢機卿を支持して更なる拍手喝采を受けた。最初の議長のティスラン枢機卿は[[10月16日]]まで選挙を延期することを宣言した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして第1回総会は、わずか20分&amp;lt;ref&amp;gt;ウィルトゲン神父はミサを含めて50分だったという。The first business meeting, including Mass, had lasted only fifty minutes. Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, p 17.&amp;lt;/ref&amp;gt;で議事を終了し閉会した&amp;lt;ref&amp;gt;ティスラン枢機卿は、後に、[[ジャン・ギトン]]に、公会議が開かれる前に自分を含めて進歩派の枢機卿たちが集まって、ヨハネ23世によって作られた規則を拒否し、第一回総会を乗っ取ることを決めていたことを打ち明けている。Jean Guitton, Paul VI secret, p123. in Romano Amerio, &amp;quot;Iota Unum&amp;quot; (NEL, 1987), p80.&amp;lt;/ref&amp;gt;。オランダの或る司教は、公会議会場から退場しつつ友人の司祭に「私たちの最初の勝利だった！」と叫んだ&amp;lt;ref&amp;gt;Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, p 17.&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この「クーデター」を計画していた枢機卿たちは、既にライン川周辺の中部ヨーロッパ作成のリストを準備していた。それは、リベラル派のリストであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[10月16日]]、第2回総会で、委員会委員の投票が行われた。しかし、投票に付しても、このリストは公会議の規則によって要求されていた投票数の3分の2を得なかった。そこで、リベラルな枢機卿たちはヨハネ23世教皇に規則の例外を認めさせるように圧力をかけた。投票総数の半分以上を獲得している、これは明らかに公会議の大多数の意志である、と。'''教皇ヨハネ23世は公会議の規定を無視してこのリストを受け入れ'''、公会議の諸々の委員会のすべての委員はリベラル派から選ばれた。この結果、自分たちの立てた109人の候補者の内79人が当選し「ヨーロッパ同盟」は座席の 49%を得た。教皇による指名により、更に8人がヨーロッパ同盟の委員が成立した。更に、典礼・教育・宣教・修道生活の専門として見なされていた修道会総長評議会が立てた候補者は誰一人として当選しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
既製のリストによれば委員の100人はイタリア人司教が予定されていたが、イタリア人は20名に留まった。その結果、委員会は、3分の2が進歩派に属していた。冒頭の選挙において聖座を押さえて自己主張した司教らは、公会議の指導権をますます握っていった。このことは「ライン河はティベル河に流れはじめた」と論評された&amp;lt;ref&amp;gt;After this election, it was not too hard to foresee which group was well enough organized to take over leadership at the Second Vatican Council. The Rhine had begun to flow into the Tiber. Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, p 19.&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降、公会議では単に教皇庁準備委員会の提示したものに参加者が賛成するのではなく、参加者たちがグループをつくって議論を繰り返しながら主体的に話し合いをすすめていくというスタイルがつくられていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[10月15日]]、委員選挙と平行し、フリンクスは、リエナール、アルフリンクの進歩派は、公会議の最初の議題は最も進歩的な内容、すなわち典礼について討論されるべきだと主張し、議長団の10人は[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]にそれを要求しに謁見していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[10月16日]]、同じく第2回総会で、公会議の最初の議題として最も進歩的な草案が討議されることが発表された。つまり「典礼について」であった。こうして、検邪聖省を中心とする「教皇庁的考え方は予想以上の抵抗にあって自由な前進を阻まれたのである。しかも抵抗する司教団に支持を与えたのは教皇自身であった。」&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社292ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第1会期では、典礼の諸問題、東方典礼の問題などが扱われた。同時に話し合われた啓示についての討論では、草案が棄却され、書き直しが求められた。第1会期は結局満足のいく成果をみることができなかったが、以後の会期の運営のあり方が確立された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第1会期では予め準備されていたいかなる草案も承認されなかったという事実が、ラッツィンガー神父によれば「第1会期の偉大な、驚くべき、正真正銘の肯定的結果」だった。これは「準備作業の背後にあった精神に反対する強い反動」の証拠で「公会議の第一会期のエポック・メイキングな特徴である」と呼んでいる&amp;lt;ref&amp;gt;Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, p 59.&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「典礼について」の草案をめぐって===&lt;br /&gt;
[[1962年]][[10月22日]]、第3回総会が開かれ「典礼について」の草案をめぐっての議論が開始した。これによって保守派と進歩派の対立が明らかにされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''保守派'''と言われたのは、事務総長のフェリチ枢機卿、ルッフィーニ枢機卿、オッタヴィアーニ枢機卿、シリ枢機卿など教皇庁系のイタリア人枢機卿ら、アイルランドのブラウン枢機卿、スペイン系、北米、南米の教父たちであった。ローマのラテラン大学も同意見であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''進歩派'''と言われたのは、ベルギーのスーネンス枢機卿、オランダのアルフリンク枢機卿、フランスのリエナール枢機卿、ドイツのフリンクス枢機卿やデフナー枢機卿、ベア枢機卿などの中央ヨーロッパ系（「ヨーロッパ同盟」と呼ばれていた）や少数の北イタリアの教父たちであった。その他、オランダのスキレベークス神父やフランスのコンガール神父、ドイツのラーナー神父などもいた。ローマのグレゴリオ大学も同意見であった&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社288-289ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「典礼について」をめぐる保守派と進歩派の対立===&lt;br /&gt;
[[1962年]][[10月22日]] - [[11月13日]]、典礼に関する草案について討論が行われた。進歩派のレジェ、アルフリンク、エルヒンガーなどの教父は、共同司式ミサパンとブドウ酒の両形色の聖体拝領を主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1962年]][[10月30日]]の総会で、保守派のオッタヴィアーニ枢機卿はそれに反論したが、割り当てられた十分間にまだ話を終えていなかったにもかかわらず、議長であった進歩派のアルフリンク枢機卿は、規定の時間を超えるとオッタヴィアーニ枢機卿のマイクのスイッチを突然切ってしまった。屈辱を受けたオッタヴィアーニ枢機卿は黙って自分の席に戻ったが、多数の教父は嘲笑と拍手で議長を支持した&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 290ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「啓示の諸源泉について」の草案における意見の対立===&lt;br /&gt;
[[1962年]][[11月14日]] - [[11月22日]]、「啓示の諸源泉について」の草案について討論が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1962年]][[11月14日]]、「啓示の諸源泉について」という予め作成されていた草案は、カトリックの教義を明確に出し過ぎておりエキュメニカルな観点から望ましくないと非難され、初日からリエナール、フリンクス、レジェ、ケーニッヒ、リッターなどの進歩派の教父が反対した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[11月17日]]、デフナー枢機卿も加わり、進歩派は準備委員会によって作られた草案全体を却下しその代わりに、既にラーナー神父によって準備されていた草案を支持した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[11月20日]]、議長であった進歩派のフリンクス枢機卿は「啓示の諸源泉について」の草案討議の中断を公会議の投票に付した。投票の結果、賛成は1386票、不賛成は822票であり、賛成投票は3分の2の多数には及ばなかった。事務総長のフェリチ枢機卿は、討議は続行すると宣言した。しかし、教皇ヨハネ23世は、ベア枢機卿とレジェ枢機卿の要求に屈服し、公会議の規定を無視して、この草案は破棄となった&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 290-291ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「教会について」の草案における意見の対立===&lt;br /&gt;
[[1962年]][[12月1日]] - [[12月7日]]、「教会について」の草案に関する討論が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[12月1日]]、「教会について」という予め作成されていた草案は、初日からリエナール（この草案は「キリストの神秘体をローマ教会と同一視している」）、フリンクス（「ギリシア・ラテンの教父思想の発露がない」）、デフナー（「神の民と司教団についての説明がない」）、ド・スメット（「勝利主義的法律的傾向が強い」）、レルカノ（「貧者の教会の思想がほしい」）、モンティーニ（「キリストと教会との関係の説明が不十分」）、マクシモス（「エキュメニカルな配慮が足りない」）などの進歩派の教父が反対した。この草案は、教皇の判断と決定によって、票決されることなく廃案となった。&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社291-292ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その他の議事内容===&lt;br /&gt;
*[[1962年]][[11月23日]] - [[11月26日]]、「マスコミについて」の草案に関する討論が行われた。&lt;br /&gt;
*[[1962年]][[11月26日]] - [[11月30日]]、「[[東方教会]]との一致について」、「[[聖母マリア]]について」、「[[エキュメニズム]]について」の3草案に関する討論が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===調整委員会===&lt;br /&gt;
[[12月5日]]、[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]は、準備委員会の作成した草案を、司牧的なもの（ad intra, すなわち教会内部に向けての信徒らへの発言）、世界的に意味があるもの（ad extra, すなわち教会外部の世界に向けての発言）という観点から、再検討することを要求し、調整委員会を設置した。キコニアーニを委員長とし、リエナール、ウルバーニ、スペルマン、コンフェロニエーリ、デフナー、スーネンスから成ったこの委員会は殆どが進歩派で占められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第2バチカン公会議開会の前、すでに1962年 3月に、[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]は、秘密裏にスーネンスに多すぎる草案を掃除することを任せていたが、スーネンス計画が実行され、公会議開会の60日後には、準備されていた73の草案&amp;lt;ref&amp;gt;1962年12月5日の総会で配布された史料によると、準備委員会が作成した73の草案は20に削減され、1963年3月末に、調整委員の手で17に縮小された。公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 292-293ページ参照&amp;lt;/ref&amp;gt;はすべてが否決されて捨て去られることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1963年]][[6月3日]]、会期終了後、次の会期に向けて草案（シェーマ）の見直しや議論の整理が行われていたが、ガンを患っていたヨハネ23世は会議の終結を見ることなくこの世を去った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1963年]][[6月21日]]、[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]のあとを受けて[[パウロ6世_(ローマ教皇)|パウロ6世]]が選出された、翌[[6月22日]]のラジオ・メッセージで公会議の継続を宣言した。教皇が第2バチカン公会議の第2会期を[[1963年]][[9月29日]]に開会すると予告すると、世界中で公会議教父たちは様々な草案の研究を再び開始し出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1963年]][[8月26日]] - [[8月29日]]、ヨーロッパ同盟の司教たちのイニシアティヴで、第2会期をどのように持って行くかを準備する会合がドイツのフルダで開かれた（フルダ会議 Fulda Conference）&amp;lt;ref&amp;gt;Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, pp 78-84&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===4名の運営委員 moderatores 設置===&lt;br /&gt;
[[1963年]][[9月12日]]付けのティスラン枢機卿への手紙により、第2バチカン公会議の第2会期開会に先立ち、新任教皇[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]は、次のことを定めた。&lt;br /&gt;
#4人の運営委員 moderatores の設定、&lt;br /&gt;
#公会議の議長団の拡大（構成員を 10人から 12人に増加）とその職務を公会議運営手続上の問題のみに限定、&lt;br /&gt;
#非キリスト教者との対話のための事務局の設置、&lt;br /&gt;
#広報委員会の設置、傍聴者としての一般信徒代表の公会議への参加、&lt;br /&gt;
#非カトリックのオブサーバーの増加、&lt;br /&gt;
などであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
指名された4名の運営委員は、進歩派のデフナー、スーネンス、レルカノ、中道派のアガジャニアンであった。こうして自由主義者が公会議主導の覇権を握った。この運営委員会は、教皇庁からの介入の余地を少なくするものであった。&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年 中央出版社 294ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第2会期（Sessio Secunda [[1963年]][[9月29日]] - [[12月4日]]）==&lt;br /&gt;
[[9月29日]]の第2会期（Sessio Secunda）の初頭、新教皇[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]は議題が多すぎて収拾がつかなかった第1会期の結果を踏まえて、公会議の優先議題を明示した。それは以下の四つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#教会論の確立と司教団の役割の検討&lt;br /&gt;
#教会の刷新・現代化&lt;br /&gt;
#エキュメニズムの推進&lt;br /&gt;
#カトリック教会と現代世界の対話&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第2会期においては、司教権あるいは司教団の性格、教会における聖母マリアの地位が、保守派と進歩派との論争点となった&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 294ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さまざまな議題について議論はつきなかったが、この会期の中で『[[典礼憲章]]』(Sacrosanctum Concilium)&lt;br /&gt;
と『広報機関に関する教令』の二つが一応の成立を見たことで、このまま議論だけで終わるのではないかという参加者自身の不安が取り除かれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1963年]][[9月30日]]、教会論の草案をめぐって討論が開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===司教団について===&lt;br /&gt;
第2会期の間、「教会について」神学委員会が準備した草案が廃案となった後、新しい第2次草案が激しく討論された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[10月4日]] - [[10月16日]]、教会の最高教導機関としての司教団 ordo episcoporum, collegium episcoporum を認めるか否かが討論されて、127人の教父が発言した。教父たちは、3つの派に分かれた&amp;lt;ref&amp;gt;Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, p228&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ローマ系の聖伝派：彼らによれば、教皇だけが、神授の権利により、全世界の教会の唯一の頭であり、教皇のみが最高権威の充満を完全に持つ。ペトロは、キリストの代理者（教皇）だからこそ、使徒団の頭である。司教団は、公会議という例外において、固有の行動を行使するのみ。司教団という、全教会に対する神授の最高権威は無い。&lt;br /&gt;
*ラディカル・リベラル派：彼らによれば、司教たちが一つの団体を構成し、教皇は司教団体の意見を参照して始めて決断を下すことが出来る。&lt;br /&gt;
*穏健なリベラル派：彼らによれば、司教たちは一つの団体を構成し、頭である教皇に従い、教皇は、司教団体とは独立して、個人的な権能を行使することができる。ペトロは司教団の頭だからこそ、キリストの代理者である。神授の権利により、教会は恒常的に公会議状態である。教会は、教皇と、教皇と共にある司教団という二つの頭を持つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この問題の討議は、意見が明確に対立したまま打ち切られ、次の議題に移された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1963年]][[10月16日]] - [[10月24日]]、信徒についての草案が討論された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===司教団についての試験的投票===&lt;br /&gt;
[[10月14日]]、運営委員会のスーネンス枢機卿は、司教団の問題に関して4点についての試験的投票を[[10月17日]]に行うと発表した。しかしフェリチ事務総長、議長団、調整委員会の保守派はそのような票決に反対した。このような投票を運営委員会が行うことは、調整委員会に対する越権行為であると考えられていた。反対のために[[10月17日]]の投票は行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[10月29日]]、運営委員会は、投票の問題点を4つではなく次の5点として発表し、翌日に投票が実施された。&lt;br /&gt;
#司教聖別の秘蹟性&lt;br /&gt;
#司教の団体性&lt;br /&gt;
#教会の最高教導機関としての司教団&lt;br /&gt;
#司教の神的起源&lt;br /&gt;
#恒久的聖職身分としての助祭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[10月30日]]、試験的投票の結果、5点のいずれも3分の2以上の大多数を得た。&lt;br /&gt;
[[11月5日]]、「司教と司教区行政について」の草案が討議された。&lt;br /&gt;
[[11月6日]]、マクシモス・ザイグ大主教は司教評議会の設立案を支持した。&lt;br /&gt;
オッタヴィアーニ枢機卿とブラウン枢機卿は、10月30日の試験的投票は神学委員会を拘束する力がない、司教団に関する教えも確立されていないと反論した。&lt;br /&gt;
ルフェーブル大司教は「奇蹟によったかのように、この公会議でそのような原則を見つけだしたとしたら、公会議教父たちの一人がそうほとんど断言したように、論理的に言って、ローマ教会は、天主が創立した自分の構造に関する基本原則を何も知らずに間違いつづけてきたと断定しなければならないこととなる」と論じた&amp;lt;ref&amp;gt;日本語はトマス小野田圭志神父（聖ピオ十世会司祭）による&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===聖母マリアに関する草案===&lt;br /&gt;
元来、聖母マリアに関する草案（De Beata Maria Virgine, Matre Dei et Matre hominum）は独立した文書だった。オッタヴィアーニ枢機卿はこれを独立した決議文として成立させようとしていた。&amp;lt;ref&amp;gt;この準備された草案は聖母マリアを「すべての聖寵の仲介者」という称号でも呼んでいた。しかし準備委員会の会議ですでに、リエナール枢機卿はこの称号に抗議していた。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、1963年、第2会期が始まる前、フルダ会議で、カール・ラーナーは「エキュメニカルな観点から見て、悪い結果をもたらす」ので「分裂の原因となることを避ける平和的な妥協」を求めていた。ラッツィンガー、グリルマイアー、ゼンメルロートも同様であった&amp;lt;ref&amp;gt;Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, p176&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[9月30日]]、第2会期が始まるやいなや、フリンクス枢機卿は、マリアに関する草案を「過度なマリア信心」と批判し、教会論の一部として短縮し編入すべきという意見を出した。&lt;br /&gt;
[[10月2日]]、シルバ枢機卿もマリア論を教会論の一部とするべきと主張した。&lt;br /&gt;
[[10月3日]]、デ・アリッバ枢機卿は、60人の司教の名前で、マリア論を独立した草案とすべきだと要求し、約600人の司教の陳情書が提出された。&lt;br /&gt;
[[10月24日]]、サントス枢機卿は、独立した聖母草案を求める代表として審議報告を行い、他方でケーニヒ枢機卿は編入を求める代表として報告を行った。&lt;br /&gt;
[[10月27日]]、グロティ司教は、エキュメニズムとは、真理を宣言することなのか、隠すことなのか？と問うた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[10月29日]]、独立草案か編入かを問う投票で、賛成 1114 対 反対 1074 で、教会論への編入を要望する意見がわずかの差で多数を占めた&amp;lt;ref&amp;gt;When the votes were counted, there were 1114, in favor of combining the two schemas; the required majory was only 1097. Father Rahner - and the European alliance - had won by a margin of seventeen votes. Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, p 95. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 296ページでは、投票の日付が10月30日となっているが、正確には10月29日。同様に、公会議解説叢書3『自覚を深める教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 565ページも「10月24日の票決に先立って」は「10月24日には、票決に先立って」と読むべきである&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===委員会の新委員===&lt;br /&gt;
[[1963年]][[11月21日]]、[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]は、委員会の25名を30名に拡大すると決定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1963年]][[11月28日]]、5人の増員の選挙が行われ、5人とも世界同盟（進歩派のヨーロッパ同盟の拡大版）の進歩派から選ばれた。「この拡大によって司教団の意見がよりよく会議の草案に反映されるようになった。」&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 298ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その他の議論===&lt;br /&gt;
*[[1963年]][[11月22日]]、「典礼について」の草案の最終票決が行われ、[[1963年]][[12月4日]]、「典礼について」の草案（Sacrosanctum Concilium）が公布された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1963年]][[11月14日]] - [[11月25日]]、「マスコミについて」の草案に関する討論が行われ、[[1963年]][[11月25日]]、「マスコミについて」の草案の最終票決が行われた。最終的に[[1963年]][[12月4日]]、「マスコミについて」の草案（Inter Mirifica）が公布された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1963年]][[11月18日]] - [[11月27日]]、「エキュメニズムついて」の草案に関する討論が行われた。[[1963年]][[11月19日]] - [[12月2日]]、信経の自由についてのテキスト（「エキュメニズムついて」の草案の第5章）に関する討論が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===請願書===&lt;br /&gt;
[[1963年]][[12月3日]]、第2会期閉会の前日、213人の教父の署名がある「マルクス主義、社会主義、共産主義を論駁する」特別草案を要求する請願書が提出された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1964年]][[2月3日]]、教皇が公会議教父らと共に、ロシアと世界を聖母の汚れ無き御心に奉献することを求める嘆願書に、510人の高位聖職者たちが署名してパウロ六世に提出された。[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]は、1965年 1月これを拒絶した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===休会中の動き===&lt;br /&gt;
[[1964年]]初頭、[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]は、[[コンスタンチノープル]]の[[総大主教]][[アテナゴラス1世]]を訪問する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1964年]][[5月11日]] - [[5月22日]]、[[インスブルック]]でヨーロッパ同盟派の司教たちが会合を持った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1964年]][[1月15日]]、調整委員会の会合で、進歩派のデフナー枢機卿は、リベラル派にとって重要な問題のみを取り上げ、重要性の少ない細かい問題については、「指針」propositiones という形で簡単にまとめ、公会議のスピードをアップさせることを提案し採決された(デフナー計画 Döpfner plan）&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社 299ページ。Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, p 146.&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第3会期（Sessio Tertia [[1964年]][[9月14日]] - [[11月21日]]）==&lt;br /&gt;
翌年おこなわれた第3会期では信徒のオブザーバーたちもが招聘されて、多くのシェーマが精力的に検討された。特に教皇の首位権に関する第1バチカン公会議の決議を尊重しつつ、司教団の団体性指導原理を強調するという方法に関しての議論が白熱した。会期がすすんでもなかなか教令が形にならないことで参加者たちもあせり始めたが、最終的に『東方カトリック諸教会に関する教令』、『エキュメニズムに関する教令』 、『[[教会憲章]]』（Lumen Gentium）が成立させることができた。『司祭の役務と生活に関する教令』などのシェーマはいまだに不十分であるとして差し戻された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===司教団体主義===&lt;br /&gt;
[[1964年]][[9月15日]]、第3会期開会の最初、スタッファ大司教は、公会議の議会則第6節、第57条に基づき、70人の教父たちを代表して発言許可を求めた。しかしその願いは拒否された&amp;lt;ref&amp;gt;Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, p230&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[9月21日]]から[[9月29日]]まで、本文は一句節ずつ表決に付された。最終的には、1624票の賛成と、572票の条件付き賛成(placet juxta modum)、42票の反対となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1964年]][[11月7日]]、スタッファ大司教はパウロ6世に手紙を書いて、司教団体主義の命題という「極端な形式」の利益のためにローマ・カトリック系神学を沈黙させようとする手続上の妨害（[[9月15日]]に発言許可が与えられなかったこと）を告発した（スタッファ作戦 Operation Staffa)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その間に、35人の枢機卿と大修道会の5人の総長らは、パウロ6世に[[10月18日]]付きのメモを書き、革新的な教えに関する彼らの「憂慮」を表明し、草案が曖昧で多義性を持ち、公会議後に極めてリベラルな意味に解釈される危険性があると指摘し、また考察のための休憩時間と、熟考の期間を要請した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]は草案の多義性が持つ危険性があると信じることが出来ず、何も行動を取らなかったが、スタッファ枢機卿と同調する神学者たちの名前を列挙することを求めた。スタッファが3人の名前を挙げると[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]が高く評価する人々であり彼はうろたえた。しかし、何の手も打たなかった。その時、極端にリベラルな教父が曖昧な文章は公会議後にどのように解釈されるかを文章にした。この書面が[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]に提出され、自分が欺されたと気づき涙を流した&amp;lt;ref&amp;gt;Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, p231-232&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]は国務長官に命じて、オッタヴィアーニ枢機卿に司教団体主義に関する草案の諸点の表現をもっと正確に述べるように求めた。これが「予備解説的注釈」 (Nota explicativa praevia) である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1964年]][[11月14日]]、予備解説的注釈が教父らに示された。この注釈が草案に含まれている内容の意味を変えるか変えないかで議論が起こった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1964年]][[11月16日]]第123回総会で、リベラルな教父たちが「暗黒の一週間 (Black Week)」と呼ぶ週が始まった。[[11月16日]]の告知で、公会議事務総長ペリクレ・フェリチ (Pericle Felici) 大司教は、論争を終らせるために「『教会について』の草案第3章に出された修正意見に、あらかじめつけられた次の解説的注釈が、最高権威&amp;lt;ref&amp;gt;教皇[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]のこと&amp;lt;/ref&amp;gt;によって教父たちに伝えられた 。第3章に書かれている教えはこの注釈の意向と意味にしたがって 説明され理解されなければならない」&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社 pp333―334&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.vatican.va/archive/hist_councils/ii_vatican_council/documents/vat-ii_const_19641121_lumen-gentium_en.htmlDOGMATIC CONSTITUTION ON THE CHURCH LUMEN GENTIUM 'NOTIFICATIONES' GIVEN BY THE SECRETARY GENERAL OF THE COUNCIL AT THE 123rd GENERAL CONGREGATION, NOVEMBER 16, 1964]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.vatican.va/archive/hist_councils/ii_vatican_council/documents/vat-ii_const_19641121_lumen-gentium_lt.html EX ACTIS SS. OECUMENICI CONCILII VATICANI II NOTIFICATIONES]&amp;lt;/ref&amp;gt;と発表があり、この注釈は『教会憲章』の一部となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その他の討論===&lt;br /&gt;
*[[1964年]][[9月30日]] - [[10月6日]]、啓示についての草案が討論された。フラニッチ司教は草案は間違いではないが聖伝の充満性について大きな欠陥があると指摘した。デフナー枢機卿は78人のドイツ語圏司教らを代表して、啓示が全て聖書の中に含まれているか否かという難しい問題に触れずにうまく隠してあると賞賛した。&amp;lt;ref&amp;gt;Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, p 177.&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[1964年]][[10月7日]] - [[10月13日]]、信徒使徒職についての草案が討論された。&lt;br /&gt;
*[[1964年]][[10月13日]] - [[10月15日]]、司祭職についての草案が討論され、「指針」propositiones に還元され、差し戻された。&lt;br /&gt;
*[[1964年]][[10月15日]] - [[10月20日]]、東方教会についての教令が討論された。&lt;br /&gt;
*[[1964年]][[11月6日]] - [[11月9日]]、宣教についての草案が討論され、「指針」propositiones に還元された。指針は破棄され、草案が再準備された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===現代世界における教会について===&lt;br /&gt;
[[1964年]][[9月30日]]、リベラル派の起草した「現代世界における教会について」の草案に追加が現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1964年]][[10月20日]]の上程予定日に、「現代世界における教会について」の草案（草案第13と呼ばれた）検討が上程されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1964年]][[10月20日]] - [[11月10日]]、現代世界における教会についての教令が討論された。超自然の要素がないと批判されたが、差し戻しにはならなかった。これが後に「現代世界憲章」となる&amp;lt;ref&amp;gt;Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, pp 210-211&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その他の議論===&lt;br /&gt;
*[[1964年]][[11月10日]] - [[11月12日]]、修道生活についての草案が討論された。&lt;br /&gt;
*[[1964年]][[11月12日]] - [[11月17日]]、司祭養成についての草案が討論され、指針に還元された。&lt;br /&gt;
*[[1964年]][[11月17日]] - [[11月19日]]、キリスト教教育についての草案が討論され、指針に還元された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===聖母マリアについて===&lt;br /&gt;
[[1964年]][[7月15日]]付けで、13名の教父たちは、請願書 (postulatum) を[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]に提出して、次のことを懇願した。&lt;br /&gt;
#聖母マリアを「教会の母」として宣言する&lt;br /&gt;
#聖伝の教えに反する草案を廃案とする&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1964年]][[9月16日]] - [[9月17日]]、聖母マリアの称号について議論された。&lt;br /&gt;
[[1964年]][[11月18日]]、聖母マリアに関する草案の票決&amp;lt;ref&amp;gt;Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, p 154&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第3会期で提示された文章では、前会期の終了時にパウロ6世が表明した希望にもかかわらず、「教会の母」という称号は削除されていた。カスタン・ラコマ司教は 80人の教父を代表してこの称号を再挿入することを要求した。しかし、これは無視された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1964年]][[11月21日]]、総会最後の日、[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]は「教会の母 (Mater Ecclesiae)」という称号を聖母マリアに与えると、自発教令で発表した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第4会期（Sessio Quarta [[1965年]][[9月14日]] - [[12月8日]]）==&lt;br /&gt;
公会議は1965年にいよいよ予定された最終会期を迎えたが、依然として11の草案が決議に至らずに残されていた。特に「シェーマ13」と呼ばれた現代世界と教会のありかたに関する文章は重要案件であり、何度も修正が重ねられていたが、いまだにまとまるめどがたたなかった。『信教の自由に関する宣言』 の草稿も議論が繰り返されたが、なかなか多数に受け入れられるものになっていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会期の初頭で教皇が、司教会議（[[シノドス]]）を立ち上げることを宣言したことが大きなニュースとなった。シノドスは実際に公会後終了後に各地で行われることになり、現代に至っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終的に啓示の扱いについて紛糾した『[[神の啓示に関する教義憲章]]』（啓示憲章 Dei Verbum）が参加者の賛成多数によって成立に至ったことで、すでに議論が重ねられていたシェーマも続々と成立していった。それらは『教会における司教の司牧任務に関する教令』、『修道生活の刷新・適応に関する教令』、『司祭の養成に関する教令』、『信徒使徒職に関する教令』、『教会の宣教活動に関する教令』、『司祭の役務と生活に関する教令』 および『キリスト教的教育に関する宣言』 、『キリスト教以外の諸宗教に関する教会の態度についての宣言』、『信教の自由に関する宣言』 といったものであった。もっとも難産となった憲章、現代世界とのかかわりについて何をどこまで踏み込んで表現するかが議論となった『[[現代世界憲章]]』(Gaudium et Spes)は12月にはいってようやく成立し、参加者一同が胸をなでおろした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1965年]][[9月15日]]、司教シノドゥスを創設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===議論された内容===&lt;br /&gt;
*[[1965年]][[9月21日]] - [[10月8日]]、現代世界における教会についての草案が討論された。&amp;lt;ref&amp;gt;Rev. Ralph Wiltgen, SVD ''Rhine Flows into the Tiber'', 1985, TAN Books, p 251.&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[1965年]][[10月7日]] - [[10月12日]]、宣教についての新しい草案が討論された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===教令の発布===&lt;br /&gt;
*[[1965年]][[10月28日]]、「修道生活の刷新について」、「司祭の養成について」、「教会における司教の司牧の責務について」、「キリスト教教育について」が公布された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1965年]][[11月18日]]、「啓示について」。「信徒使徒職について」が公布された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1965年]][[12月7日]]、「信教の自由について」、「宣教について」、「司祭の役務と生活について」、「婚姻について」が公布された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1965年]][[12月7日]]、[[カトリック教会]]と正教会により[[1054年]]の相互破門が相互に解除された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1965年]][[12月7日]]、教皇パウロ6世は公会議閉会演説において公会議の意義を宣言した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「しかし、ここで次のことに注意しなければなりません。'''教会は特別の教導権によって、特別の教義を定義しませんでした'''が、多くの問題について、現代人の良心の基準となり、行動の原理となる事柄を権威をもって教えたのであります。そのうえ教会は、'''現代人と対話を始めた'''のであります。常に自己の権威と力を保持しながら、司牧的愛に特有な'''親切と友好的態度をとった'''のであります。全ての人が教会に耳を傾け、教会を理解することを望んだのです。そのため知識階級の人々だけが理解できるような表現ではなく、普通一般に用いられている表現を使ったのであります。更に人々の心をひきつけ、人々を説得するために、生活体験や人々の心に呼びかけたのであります。すなわち、'''教会はあるがままの現代人に話しかけた'''のであります。」&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 p445-446&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===第2バチカン公会議の閉会===&lt;br /&gt;
[[12月8日]]、教皇はサン・ピエトロ広場で公会議の終了を宣言し、世界のあらゆる人々にむけたメッセージを発表。ここに4年にわたった第2バチカン公会議の幕が下ろされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 公会議の解釈 ==&lt;br /&gt;
公会議が取り扱った内容を見る前に、公会議をどのように解釈するかという問題に触れなければならない。その理由は、公会議をどのように解釈するかに、その内容も委ねられているからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第2バチカン公会議の第1にめざすべき目標として教会の教えが現代人にも理解できるように「現代の要求する方法で探求され、説明され」ること、現代人によく伝わるように新しい言い方を用いて「司牧的な性格を持つ教会の教導の任務にもっともよく合致する表現法」による説明をめざした&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 328-338ページの沢田和夫訳による。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、理解しやすい説明をしたはずだった公会議は、その正しい理解の仕方と解釈が問題とされている。公会議の20周年に当たる1985年、ラッツィンガー枢機卿（後の教皇[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]）は第2バチカン公会議は正しく理解されていないと訴えてこう発言している。&lt;br /&gt;
{{Quotation|この二十年間（1965～85年）が[[カトリック教会]]にとって決定的に不利であった、ということには'''議論の余地がない'''。'''公会議に続く結果は、ヨハネ23世やパウロ6世を始めとするみんなの期待を無惨にも裏切ったかに見える'''。キリスト教徒は、再び、古代末期以来かつてない少数派になってしまった。・・・公会議の教皇たちや教父達は、カトリック的な新たな一致を期待していたのに、－－－パウロ6世の言葉を借りて言えば－－－'''自己批判から自己破壊になりかねない不一致'''に直面した。・・・'''躍進をこそ期待したのに、結果的には衰退を見せつけられ'''、それは公会議の真の精神の権威を失墜させる自称 &amp;quot;公会議精神&amp;quot; の掛け声のもとで蔓延していった。|『信仰について』pp 40-41}}{{Quotation|公会議の本来の顔を示すのは今後の大仕事である。|『信仰について』p 45}}{{Quotation|この &amp;quot;真の&amp;quot; 公会議に対して、実際には真の &amp;quot;反精神&amp;quot; である偽称 &amp;quot;公会議精神&amp;quot; が張り合った。この致命的な反公会議精神－－－ドイツ語で言うとKonzils-Ungeist－－－によれば、すべて &amp;quot;新しいもの&amp;quot;、あるいは新しいと推定されるものは、今まであったもの、あるいは今あるものよりも常に、何はともあれいいものなのだ。|『信仰について』pp 46-47}}{{Quotation|'''第2バチカン公会議の真の時はまだ来ていないのかもしれないし、その真正の受信はまだ始まっていないのかもしれない'''。公会議諸文書の明文の再読は必ずや私たちにその真の精神を再発見させるだろう。|『信仰について』p 54}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公会議が閉会して40年が経過した後でさえ、ベネディクト16世は第2バチカン公会議の真正な理解と解釈について問題にした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|ふさわしい公会議の理解とは何でしょうか。また、不適切な、あるいは間違った公会議理解とは何でしょうか。まだしなければならないことは何でしょうか。'''教会のかなりの部分において、公会議の実施がある意味で困難だったことを誰も否定できません'''。偉大な教会博士、聖バジリオは、ニケア公会議後の教会の状況について次のように述べています。やろうと思えば、このことばは、過去 40年の間に起こったことにあてはめることができます。バジリオは、教会の置かれた状況を'''嵐の暗闇の中で行われる海戦'''になぞらえます。'''「意見が対立し、互いにいがみ合う者たちの騒がしい叫び声、理解を超えた流言、絶え間なく騒ぎ立てる混乱した話し声――これが、今やほとんど教会全体を満たし、行き過ぎや誤謬によって信仰の正しい教えを歪めている」'''。わたしたちは公会議後の状況にこの劇的な記述をそのままあてはめたいとは思いませんが、'''すべての出来事のいくぶんかはこの記述に反映されています'''。ここで疑問が生じます。なぜ、'''教会の多くの部分において、これまで公会議の実施がそれほど難しかった'''のでしょうか。この疑問に答えるには、何よりも、公会議の正しい解釈が必要です。あるいは、今日、そういってよければ、適切な解釈法、すなわち公会議の解釈と適用の鍵となる正しい方法が必要です。'''公会議の実施における諸問題は、二つの相対立する解釈法が互いに反目し、論争し合うことから生じました'''。|[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message81.htm 教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭の挨拶]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{see also|教会の危機}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]によれば、最初の解釈法は、「不連続と断絶による解釈法」である。もう一つの解釈法は「改革による解釈法」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===不連続と断絶による解釈法===&lt;br /&gt;
「不連続による解釈法は、あえて公会議前の教会と公会議後の教会の断絶を帰結させ」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message81.htm 教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭のあいさつ]&amp;lt;/ref&amp;gt;る革命的な見解を取る。この見解によれば、「公会議を、旧憲法を廃止して、新憲法を制定するための憲法制定議会のようなものと考え」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message81.htm 教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭のあいさつ]&amp;lt;/ref&amp;gt;、これによって全ては新しくなった。公会議は「新しい[[聖霊降臨]]」の機会であって、教会は自分の醜くさせているまた自らの使命を果たすことが妨げる全ての汚れを取り払った。&lt;br /&gt;
「不連続による解釈法が説得力を持つように思わせる・・・特別な理由」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message81.htm 教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭のあいさつ]&amp;lt;/ref&amp;gt;は、パウロ6世の公会議閉会演説である。人間に関して激しい議論が行われてきたことが、近代の特徴であり、公会議は特別な意味で人間論というテーマを取り上げた。これらすべての問題から、ある種の不連続が生じる可能性があった。実際に、ある意味では不連続が現れた。[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]の言うように「人々に対する限りない愛が公会議全体を侵略した」&amp;lt;ref&amp;gt;公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社 pp 440-448&amp;lt;/ref&amp;gt;限り、現代の人々と現代世界に合わせて、新しい教会論にそって、教会を新しく作り直すべきである。[[教皇首位権]]、[[司教]]の権能、[[司祭]]職と[[キリスト教における独身制|独身制度]]、信教の自由、エキュメニズム、神の民の役割、結婚と性道徳、典礼など。「このような革新のみが、公会議の真の精神を表すものであり、この革新から、またこの革新に従うならば、前進することが可能となると、彼らは考え」ている。&lt;br /&gt;
「この解釈法は、公会議文書そのものは公会議の真の精神をまだ表現していないといい」、「第2バチカン公会議文書は妥協の産物」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message81.htm 教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭のあいさつ]&amp;lt;/ref&amp;gt;であると主張する。例えばマルティニ枢機卿&amp;lt;ref&amp;gt;[http://chiesa.espresso.repubblica.it/articolo/21660?eng=y Metamorphosis: Cardinal Martini's Latest Phase]&amp;lt;/ref&amp;gt;や濱尾枢機卿&amp;lt;ref&amp;gt;[http://michaeldubruiel.blogspot.com/2003/11/japan-cardinal-hopes-next-pope-calls.html Japan Cardinal Hopes Next Pope Calls Vatican III]&amp;lt;/ref&amp;gt;がそう主張する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===改革による解釈法===&lt;br /&gt;
改革による解釈法を最初に示したのは、教皇[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]による[[1962年]][[10月11日]]の公会議開会演説であった。後にこの解釈法は、教皇[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]が1965年12月7日に行った公会議閉会演説でも示された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]は[[ヨハネ23世_(ローマ教皇)|ヨハネ23世]]を引用してこう言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|公会議が望むのは、「教義を弱めることも歪めることもなしに、純粋で完全なしかたで伝えること」です。教皇は続けてこういいます。「わたしたちの務めは、あたかも骨董（こっとう）趣味のように、この高価な宝を守ることだけではありません。わたしたちの務めは、わたしたちが生きている時代がわたしたちに求めている活動に、誠意をもって、畏れることなく取り組むことです」。必要なのは「教会の教えのすべてを、完全に、また正確に守ることです」。このことは「正統な教義との忠実かつ完全な一致の内に示されます。しかしながら、教義は、さまざまな研究方法と現代思想のさまざまな文学的形態を通して研究され、拡大されなければなりません。信仰の遺産における古代の教義の実体と、同じ意味とメッセージを保ちつつ、その教義を提示する方法は、別の事柄です」（『第二バチカン公会議文書集』：Sacrosanctum Oecumenicum Concilium Vaticanum II, Constitutiones Decreta Declarationes, 1974, pp. 863-865）。|[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message81.htm 教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭の挨拶]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 公会議の取り扱ったテーマ ==&lt;br /&gt;
公会議のテーマは多岐にわたっているが、ここでは主なものをあげる。&lt;br /&gt;
===教会論 ===&lt;br /&gt;
公会議の目に見える形でのもっとも大きな成果となったのが、中世以来の懸案であった教会論の確立である。これは『教会憲章』にみることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第1章「教会の秘儀について」では、[[カトリック教会]]が唯一にして聖であり、普遍的なものであること、イエスがペトロに与えた権能を引き継ぐ教皇と司教たちによって治められる組織であるといいつつ、[[カトリック教会]]以外にも聖化と真理の要素が数多く見出されると補足する事で独善的傾向を避けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第2章「神の民について」では神が個人でなく人々のグループを聖性に招いていること、その祖形がユダヤ民族に見られることを示す。また、[[カトリック教会]]に属さないキリスト教徒たち、[[ユダヤ教]]徒、[[イスラム教]]徒たちも唯一の神において互いに結ばれていると言明される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第3章「教会の聖職位階制度、特に司教職について」では第1バチカン公会議の議論を補完する形で教皇職の意味と司教団の団体制原理が示される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下、第4章「信徒について」、第5章「教会における聖性への普遍的召命について」、第6章「修道者について」、第7章「旅する教会の終末的性格および天上の教会との一致について」、第8章「キリストと教会の秘儀との中における神の母、処女聖マリアについて」と続くが、特にその中でそれまで聖職者・司祭は信徒より聖性のレベルが高いとみなしてきた教会が「すべての人が聖性に招かれている」という表現をしたことが革新的であるといえる。特に[[キリスト教]]の2000年の歴史の中で初めて信徒が公式文書の中で言及されたことは特筆に価する。また、第8章のマリア論に関する部分は元来独立した文章になる予定であったが、エキュメニズム的観点とカトリック以外のキリスト教に対して攻撃的になってはならないという配慮からこの中に組み込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===典礼===&lt;br /&gt;
この公会議の後、外見的な部分で教会が変わったと人々を実感させたのは典礼の改革であった。この精神は『典礼憲章』にくわしい。教会は典礼においてすべての人が積極的にこれにかかわることが求められるとして、多くの改革を実行した。たとえばそれまでほとんど[[ラテン語]]で行われていた[[ミサ]]および典礼の諸儀式が各国語で行われることになった。また司教の判断のもとに（全世界で一様でなく）その地域文化に根ざした典礼のあり方が模索されることになった。（典礼の見直しにともなって、レクイエム・ミサにおける[[レクイエム#構成と典礼文|続唱]]（｢[[怒りの日]]｣など）も廃止された。歌詞の内容があまりにも[[最後の審判]]への不安や恐怖を強調しすぎており、本来のキリスト教の精神から遠いというのが理由であった。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===聖書と啓示 ===&lt;br /&gt;
[[カトリック教会]]は古代以来一貫して重要視してきた「聖書と聖伝（聖なる伝承）」を保持しつつも、その現代世界への適応を目指した。具体的には聖書の各国語訳のさらなる研究が推奨された。そして聖職者と信徒にとっての聖書研究の重要性が改めて認識された。それまでの[[カトリック教会]]は聖書の研究は聖職者がすることであるとみなし、信徒がすすんで研究することはあまり推奨していなかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===司教のあり方について ===&lt;br /&gt;
教会における司教の位置づけも新しい観点によって照らしなおされた。特に司教の団体制という考え方がこの公会議の精神の特徴になっている。これは教皇と司教団が[[ペトロ]]と使徒たちのように1つとなって教会を司牧していくという考え方である。また、公会議以降それぞれの地域で司教たちが集まって会議を開くようになった。これがシノドスである。ただ、シノドスでの議決については三分の二以上の賛成と聖座の認可によって初めて有効性を持つということが定められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==公会議の影響 ==&lt;br /&gt;
アジョルナメント（現代化）をテーマに行われた公会議は、教会の現代世界への適応にかける強い意気込みを示すことになった。この会議での決定事項は以降、パウロ6世によって実施が推進され、[[ヨハネ・パウロ1世_(ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ1世]]から[[ヨハネ・パウロ2世_(ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]へと公会議理念の実践がすすめられていくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[6月18日]]、使徒憲章『Pontificalis romani』によって、叙階の秘蹟の新しい儀式が発表される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[ピオ12世_(ローマ教皇)|ピオ12世]]は1947年11月30日付けの使徒憲章『Sacramentum Ordinis』で、不可謬権を行使して叙階の秘蹟の質料と形相を定義した。それによると、司祭叙階の質料は「司教によって沈黙の内になされる最初の按手」である。司祭叙階の有効性のために必要な形相は「叙唱」の中の次の言葉である。&lt;br /&gt;
::&amp;quot;Da, quaesumus, omnipotens Pater, in hunc famulum tuum Presbyterii dignitatem; innova in visceribus eius spiritum sanctitatis, ut acceptum a Te, Deus, secundi meriti munus obtineat censuramque morum exemplo suae conversationis insinuet.&amp;quot;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]の[[1968年]][[6月18日]]付け使徒憲章『Pontificalis romani』による新しい儀式によって、司祭叙階の形相は次のように変えられた（以前あった ut が欠如している）。&lt;br /&gt;
::&amp;quot;Da, quaesumus, omnipotens Pater, in hos famulos tuos Presbyterii dignitatem; innova in visceribus eorum Spiritum sanctitatis; acceptum a Te, Deus, secundi meriti monos obtineant, censuramque morum exemplo suae conservationis insinuent.&amp;quot;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[ピオ12世_(ローマ教皇)|ピオ12世]]の同じ使徒憲章によると、司教聖別の質料は「聖別する司教によってなされる按手」である。司教聖別の有効性のために必要な形相は「叙唱」の中の次の言葉である。&lt;br /&gt;
::&amp;quot;Comple in Sacerdote tuo ministerii tui summam, et ornamentis totius glorificationis instructum coelestis unguenti rore santifica.&amp;quot;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]の同じ使徒憲章によって、司教聖別の形相は次のように変えられた。&lt;br /&gt;
::&amp;quot;Et nunc effunde super hunc electum eam virtutem, quae a te est, Spiritum principalem, quem dedisti dilecto Filio Tuo Jesu Christo, quem ipse donavit sanctis Apostolis, qui constituerunt Ecclesiam per singula loca, ut sanctuarium tuum, in gloriam et laudem indeficientem nominis tui.&amp;quot;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[1969年]][[2月13日]]付け自発教令『Mysterii paschalis』によって、新しい典礼暦が発表される。&lt;br /&gt;
* 1969年3月、新しい婚姻の儀式の発表。1990年に改正版の新しい婚姻の儀式の発表。&lt;br /&gt;
* 1969年[[4月3日]]、使徒憲章『ミサーレ・ロマーヌム』により、[[新しいミサ]]が発表される。&lt;br /&gt;
* 1969年[[5月15日]]、新しい洗礼の儀式が誕生する。[[1972年]][[1月6日]]、成人洗礼の新しい儀式の発表。&lt;br /&gt;
* [[1970年]][[11月1日]]付けの使徒憲章『Laudis canticum』および[[1971年]][[4月11日]]の教令により、新しい聖務日課が発表される。&lt;br /&gt;
* [[1970年]][[12月3日]]の教令により、新しい聖香油の儀式の発表。&lt;br /&gt;
* [[1971年]][[8月15日]]、使徒憲章『Divinae consortium naturae』により、新しい堅振の儀式の発表。&lt;br /&gt;
* [[1972年]][[11月30日]]付けの使徒憲章、及び[[1971年]][[8月22日]]の教令により、新しい終油の秘蹟（「病者の塗油」となる）。&lt;br /&gt;
* [[1973年]][[12月2日]]の教令により、新しい悔悛の秘跡（「和解の秘蹟」となる）。&lt;br /&gt;
* [[1983年]][[1月25日]]、使徒憲章『Sacrae disciplinae leges』により、カトリック新教会法典。&lt;br /&gt;
* [[1991年]]、新しい十字架の道行きの発表。新しい十字架の道行きには14留にさらに第15留が付け加わり、様々な変更がなされた。&lt;br /&gt;
* [[1998年]]、新しい払魔式（Exorcismus）の発表。&lt;br /&gt;
* [[2001年]][[6月29日]]、新しい殉教録の発行。この中に6538名の聖人及び福者の名前が掲載されている。そのうち約3分の1である1717名はヨハネ・パウロ2世によって列聖列福された。&lt;br /&gt;
* [[2002年]][[10月16日]]、回勅『Rosarium Virginis Mariae』により、新しいロザリオの祈りが提案された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 公会議文章一覧 ==&lt;br /&gt;
*『[[典礼憲章]]』(Sacrosanctum Concilium)&lt;br /&gt;
*『[[教会憲章]]』（Lumen Gentium）&lt;br /&gt;
*『[[神の啓示に関する教義憲章]]』（啓示憲章 Dei Verbum）&lt;br /&gt;
*『[[現代世界憲章]]』(Gaudium et Spes)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*『広報機関に関する教令』&lt;br /&gt;
*『東方カトリック諸教会に関する教令』&lt;br /&gt;
*『エキュメニズムに関する教令』&lt;br /&gt;
*『教会における司教の司牧任務に関する教令』&lt;br /&gt;
*『修道生活の刷新・適応に関する教令』&lt;br /&gt;
*『司祭の養成に関する教令』&lt;br /&gt;
*『信徒使徒職に関する教令』&lt;br /&gt;
*『教会の宣教活動に関する教令』&lt;br /&gt;
*『司祭の役務と生活に関する教令』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*『キリスト教的教育に関する宣言』&lt;br /&gt;
*『キリスト教以外の諸宗教に関する教会の態度についての宣言』&lt;br /&gt;
*『信教の自由に関する宣言』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*回勅『[[フマーネ・ヴィテ]]』&lt;br /&gt;
*[[解放の神学]]&lt;br /&gt;
*[[教会の危機]]&lt;br /&gt;
*[[新しいミサ]]&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*南山大学監修、『第2バチカン公会議公文書全集』、サンパウロ、1986&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
http://www.vatican.va/archive/hist_councils/ii_vatican_council/index.htm&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{公会議}}&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:たいにはちかんこうかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:公会議|はちかん2]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ar:المجمع الفاتيكاني الثاني]]&lt;br /&gt;
[[ast:Conceyu Vaticanu II]]&lt;br /&gt;
[[bg:Втори Ватикански събор]]&lt;br /&gt;
[[ca:Concili del Vaticà II]]&lt;br /&gt;
[[ceb:Ikaduhang Konsilyong Batikano]]&lt;br /&gt;
[[cs:Druhý vatikánský koncil]]&lt;br /&gt;
[[da:Det andet Vatikankoncil]]&lt;br /&gt;
[[de:Zweites Vatikanisches Konzil]]&lt;br /&gt;
[[en:Second Vatican Council]]&lt;br /&gt;
[[eo:Dua Vatikana Koncilio]]&lt;br /&gt;
[[es:Concilio Vaticano II]]&lt;br /&gt;
[[et:II Vatikani kirikukogu]]&lt;br /&gt;
[[eu:Vatikanoko II. kontzilioa]]&lt;br /&gt;
[[fi:Vatikaanin toinen kirkolliskokous]]&lt;br /&gt;
[[fr:IIe concile œcuménique du Vatican]]&lt;br /&gt;
[[gl:Concilio Vaticano Segundo]]&lt;br /&gt;
[[he:ועידת הוותיקן השנייה]]&lt;br /&gt;
[[hr:Drugi vatikanski sabor]]&lt;br /&gt;
[[hu:Második vatikáni zsinat]]&lt;br /&gt;
[[id:Konsili Vatikan II]]&lt;br /&gt;
[[it:Concilio Vaticano II]]&lt;br /&gt;
[[ko:제2차 바티칸 공의회]]&lt;br /&gt;
[[la:Concilium Vaticanum Secundum]]&lt;br /&gt;
[[lt:II Vatikano susirinkimas]]&lt;br /&gt;
[[ml:രണ്ടാം വത്തിക്കാൻ സൂനഹദോസ്]]&lt;br /&gt;
[[nl:Tweede Vaticaans Concilie]]&lt;br /&gt;
[[no:Andre Vatikankonsil]]&lt;br /&gt;
[[pl:Sobór watykański II]]&lt;br /&gt;
[[pt:Concílio Vaticano II]]&lt;br /&gt;
[[ro:Conciliul Vatican II]]&lt;br /&gt;
[[ru:Второй Ватиканский собор]]&lt;br /&gt;
[[scn:Cuncìliu Vaticanu Secunnu]]&lt;br /&gt;
[[sh:Drugi vatikanski koncil]]&lt;br /&gt;
[[simple:Second Vatican Council]]&lt;br /&gt;
[[sk:Druhý vatikánsky koncil]]&lt;br /&gt;
[[sl:Drugi vatikanski koncil]]&lt;br /&gt;
[[sq:Këshilli i dytë Vatikanor]]&lt;br /&gt;
[[sr:Drugi vatikanski sabor]]&lt;br /&gt;
[[sv:Andra Vatikankonciliet]]&lt;br /&gt;
[[sw:Mtaguso wa pili wa Vatikani]]&lt;br /&gt;
[[ta:இரண்டாம் வத்திக்கான் பொதுச்சங்கம்]]&lt;br /&gt;
[[tl:Ikalawang Konsilyo Vaticano]]&lt;br /&gt;
[[tr:İkinci Vatikan Konsili]]&lt;br /&gt;
[[uk:Другий Ватиканський собор]]&lt;br /&gt;
[[vi:Công đồng Vaticanô II]]&lt;br /&gt;
[[zh:第二次梵蒂岡大公會議]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Catholic</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://44.233.173.13/mediawiki/index.php?title=%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%8D%B1%E6%A9%9F&amp;diff=183198</id>
		<title>教会の危機</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://44.233.173.13/mediawiki/index.php?title=%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%8D%B1%E6%A9%9F&amp;diff=183198"/>
				<updated>2013-03-22T08:03:34Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Catholic: ページの作成：「'''教会の危機'''（きょうかいのきき、{{lang-en|Crisis of the Church}}）は、ベネディクト16世教皇によると、特にカトリック教会の[...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''教会の危機'''（きょうかいのきき、{{lang-en|Crisis of the Church}}）は、ベネディクト16世教皇によると、特に[[カトリック教会]]の[[第2バチカン公会議]]以後の危機的な現象を指す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
曰く「この二十年間（1965～85年）がカトリック教会にとって決定的に不利であった、ということには議論の余地がない。公会議に続く結果は、ヨハネ23世やパウロ6世を始めとするみんなの期待を無惨にも裏切ったかに見える。キリスト教徒は、再び、古代末期以来かつてない少数派になってしまった。・・・公会議の教皇たちや教父達は、カトリック的な新たな一致を期待していたのに、－－－パウロ6世の言葉を借りて言えば－－－自己批判から自己破壊になりかねない不一致に直面した。・・・躍進をこそ期待したのに、結果的には衰退を見せつけられ、それは公会議の真の精神の権威を失墜させる自称 &amp;quot;公会議精神&amp;quot; の掛け声のもとで蔓延していった。」&amp;lt;ref&amp;gt;ラッツィンガー枢機卿『信仰について』pp 40-41&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教会の危機については、 [[パウロ6世]]、 [[ヨハネ・パウロ2世]]、 [[ベネディクト16世]]が既に言及している。教皇の発言については、以下の記事本文を参照されたい。また、教会の危機の状況が存在していることについては、世界各国の客観的な統計の数字がそれを証明している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概説==&lt;br /&gt;
1960年代から、カトリック教会では数万の[[司祭]]が司祭職を捨て、多くの[[修道者]]や修道女たちが還俗した。[[ヨーロッパ]]や[[アメリカ]]の特にカトリックの優勢であった国々では[[召命]]が激減し神学校や[[修道院]]が続々と閉鎖された。多くの小教区では司祭が不在で、修道会は以前経営していた学校、病院、その他の施設を放棄している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
NCR(National Catholic Reporter)によると、カトリック教会は、教会史上最大の危機を迎えている。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://theweek.com/article/index/202388/catholics-in-crisis Catholics in crisis]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;It’s “the largest institutional crisis in centuries, possibly in church history.”&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 信仰生活の危機 ==&lt;br /&gt;
=== 信徒の信仰生活の危機 ===&lt;br /&gt;
西洋での[[カトリック教会]]の教勢は全く衰弱している。[[フランス]]、[[イタリア]]、さらに[[スペイン]]や[[アイルランド]]でも、[[主日]]に[[ミサ]]に参加する信者は、少数派に転落した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[フランス]]において、1958年には、35パーセントのフランス人たちが主日ごとに[[ミサ]]に与っていたが、2004年にはわずか5パーセントに低下している。1950年、90パーセント以上のフランス人が子供に洗礼を授けていたが、2004年には60パーセント以下が子供に洗礼を授けるのみとなっている。2003年の統計によると、カトリック信者の4人に1人が「[[罪]]というのは意味をなさない」と答えている。&lt;br /&gt;
*2007年の統計によればフランスでは人口の半数のみが自分をカトリック信徒であると考えている。1994年には80％以上がカトリックであると答えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*2007年、アイルランドでも教会に来る信徒の数が減少している。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://cathnews.acu.edu.au/701/63.php Church exodus levelling off in Austria, Ireland]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
**アイルランドのダブリン大司教区のマルティン大司教は、2011年5月、CNSのインタビューに答えて、カトリック信仰を若い世代に伝えることに失敗していると発言した。2011年現在、18％のカトリック信徒だけが主日のミサに与るのみである。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.catholicnews.com/data/stories/cns/1101942.htm Dublin archbishop says Catholics not passing on faith to young people] &amp;quot;We have to completely, radically change the way we pass on the faith,&amp;quot; Archbishop Diarmuid Martin told Catholic News Service May 16. &amp;quot;Our parishes are not places where evangelization and catechesis are taking place.&amp;quot; 18 percent of Catholics regularly attend Sunday Mass.&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
**アイルランドでは、1991年、人口の84％が少なくとも週に一度ミサに与っていた。2010年、その数は50％以下に減少した。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://theweek.com/article/index/202388/catholics-in-crisis Catholics in crisis]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*スペインでは、2010年現在の統計によると、カトリック信徒の3分の2がカトリック教会の儀式にはほとんど与ったことがないと答えている。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://theweek.com/article/index/202388/catholics-in-crisis Catholics in crisis]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[ドイツ]]では、3組に1組が結婚の5ないし10年後に離婚をし、その後再婚しようとするカトリック信者が増加している。1984年の統計によると、カトリックの強いドイツのチロル地方では、84パーセントが[[避妊]]に関する教会の教えを拒否すると答えている&amp;lt;ref&amp;gt;Herderkorrespondesz, Marz 1984&amp;lt;/ref&amp;gt;。18歳から30歳の回答によると、避妊に関する教会の教えに全く同意すると答えたのは、1.8パーセントしかない。&lt;br /&gt;
** 1970年から1993年の間に190万人のドイツ人が[[カトリック教会]]から公式に離れた。その理由は彼らにとって[[カトリック教会]]が意味をなさないから、重要ではないから、であった。&lt;br /&gt;
** 2008年の1年間に121,155名のカトリックが教会を離れたと発表した。2006年には84,389名、2007年には93,667名であった。[[カトリック教会]]に新しく入信した信徒の数は、2007年に4881名、2008年には4388名に過ぎなかった。2007年と2008年の1年間に、28万名のカトリック信徒が減少した。同じ1年間で、小教区教会の数は 12,265 から 12,080 に減少した。また同じ間に、[[カトリック教会]]で婚姻する数は 49,393 から 48,841 に減少した。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.kipa-apic.ch/index.php?&amp;amp;pw=&amp;amp;na=3,1,0,0,f&amp;amp;ki=199170 Katholische Kirche beklagt weiteren Mitgliederschwund]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*2010年、ドイツにある24司教区の統計によると、18万人がカトリック教会を公式に離れた。（2009年では、約13万人であった。）カトリック教会を公式に離れるドイツのカトリック信徒数は、2009年と比較すると40％増加したことになる。2011年現在ドイツでは2500万のカトリック信徒が教会に在籍しているが、以前は毎年1万名の信徒が教会を離れていた。&lt;br /&gt;
**2010年、ケルン大司教区では15,000人以上がカトリック教会を離れた。&lt;br /&gt;
**2010年バヴァリアのアウクスブルクだけでも、12,065人のカトリックが教会を公式に離れた（2009年には7千人がカトリックを止めた）。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://wenewsit.com/2011/05/german-catholic-church-finds-faithful-leaving/ German Catholic Church finds faithful leaving]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://209.157.64.201/focus/religion/2568264/posts?page=2 Austrian Churchgoers Quit in Record Numbers]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.catholicculture.org/news/headlines/index.cfm?storyid=9903 Departures from German Catholic Church soared in 2010]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.asiaone.com/News/AsiaOne+News/World/Story/A1Story20110407-272379.html More German Catholics quit Church over sex abuse CHURCH IN CRISIS]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5hnrfkBSPPnHvxXYvGOHfOtCTxZTQ?docId=CNG.8d00429b889e9bb8fbb49b947c2102b1.c1 BERLIN — Paedophile priest scandals in Germany contributed to a 40-percent rise in the number of Catholics leaving the Church last year, a report said Thursday, five months before a visit by the pope.]&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*2007年、オーストリアのカトリック教会では2006年と比較すると信徒数が18％減少した。オーストリアにおいて、2004年に45,000人の信徒が、2005年には44,609人、2006年は36,645人が、法的にカトリック教会から脱会した。ウィーン大司教区は信徒の「大脱出（mass exodus）」の兆候が見られると述べている。&lt;br /&gt;
**2010年、オーストリア司教評議会によると、オーストリアで87,000人のオーストリア人カトリック信徒が教会を離れた（2009年と比較すると64％の増加）。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://cathnews.acu.edu.au/701/63.php Church exodus levelling off in Austria, Ireland]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
**2011年、オーストリア・ドイツ・スイスの極めて進歩派の143人の神学者らは、教会の危機を解消するために、2011年を「脱出の年」を求める声明文に署名し、カトリック教会をさらに民主化するように求めた。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.associationofcatholicpriests.ie/2011/02/a-%E2%80%9Cyear-of-departure%E2%80%9D-german-speaking-theologians-call-for-reform/ A “Year of Departure”: German-speaking theologians call for reform] By coincidence, today is not only a “Day of Departure” in Egypt. It is also the day on which 143 theologians from Austria, German, and Switzerland have signed a statement calling for a “Year of Departure” – for structural reforms in the Catholic Church in the wake of the sex abuse scandals. Thereupon followed a year that plunged the &amp;lt;B&amp;gt;Catholic Church in Germany into an unequaled crisis&amp;lt;/B&amp;gt;. The &amp;lt;B&amp;gt;deep crisis of our Church&amp;lt;/B&amp;gt; demands that we address even those problems which, at first glance, do not have anything directly to do with the abuse scandal and its decades-long cover-up.&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*アメリカ合衆国では、2008年だけで40万人がカトリック教会を離れた。1995年から2008年までに、廃止された小教区は1000以上あり、司祭の数は49,000人から40,000人に減少した。社会学者デイヴィド・カーリンは「カトリシズムはアメリカの至る所で衰退している」という。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://theweek.com/article/index/202388/catholics-in-crisis Catholics in crisis]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;“Catholicism is in decline across America,” says sociologist David Carlin.&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ラテン・アメリカにおいても、毎年[[カトリック教会]]は60万の信徒たちを失っている&amp;lt;ref&amp;gt;「対話のための教皇庁委員会議長」のフランク・ロデ神父の1993年の報告&amp;lt;/ref&amp;gt;。ラテン・アメリカでは急速なプロテスタント化が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2004年10月21日、ディエゴ・セヴァジョス（メキシコ）のレポートによると、バチカンは「ラテン・アメリカは、 &amp;quot;希望の大陸&amp;quot; から &amp;quot;心配の大陸&amp;quot; に変わった」と言う。その理由は、ラテン・アメリカの大量の信徒らがカトリック教会を離れているからである。この報道によれば、このペースは15年以内にカトリック教会を崩壊に導くであろうと言われている。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ipsnews.net/news.asp?idnews=25966 Catholic Church Losing Followers in Droves] by Diego Cevallos &amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2004年現在、ラテン・アメリカは全世界にいる10億7千万人のカトリック信徒たちのほぼ半数を抱えている。しかし司教聖省で働いているシプリアノ・カルデロンは、信徒の喪失は「痛々しい現実」であるという。&amp;lt;ref&amp;gt;The loss of Catholic faithful &amp;quot;is a painful reality that calls out dramatically to us as pastors of Latin American churches,&amp;quot; said Cipriano Calderón, a member of the Vatican Congregation for Bishops and former president of the Pontifical Commission for Latin America.&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カトリック教会においてミサ聖祭が、プロテスタントの聖餐式のようになると、多くのカトリック信徒らがプロテスタントの教会に移るようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1990年、ブラジルでは3パーセントがプロテスタントであったが、2004年には16パーセントになり、毎年加速している。ブラジルでは2005年、1億人のカトリック信徒がいるが、毎年50万人が教会を離れている。福音派のプロテスタント諸教派は、1991年には人口の9％であったが、2000年には15.1％になっている。他方で、同時にカトリック信徒は83.7％から 73.7％に減少している。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ipsnews.net/news.asp?idnews=25966 Catholic Church Losing Followers in Droves] by Diego Cevallos &amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*メキシコでは、第2バチカン公会議以前と比べると2004年現在、10％の信徒が教会を離れた。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ipsnews.net/news.asp?idnews=25966 Catholic Church Losing Followers in Droves] by Diego Cevallos &amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*コロンビアでは、第2バチカン公会議以前には人口のほぼ全てがカトリック信徒であったが、2004年現在では3人に2人がカトリックであるという。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ipsnews.net/news.asp?idnews=25966 Catholic Church Losing Followers in Droves] by Diego Cevallos &amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*グアテマラでは、人口の3分の1がカトリック教会を離れ、ほとんどが福音派のプロテスタントになった。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ipsnews.net/news.asp?idnews=25966 Catholic Church Losing Followers in Droves] by Diego Cevallos &amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*コスタ・リカでは、2003年の調査によると、人口の77％がカトリック信徒であったが、1年後の2004年には71.3％に減少した。別の統計によると、52％がカトリック教会を「信じない」とし、44％が「信じる」と答えた。コスタ・リカの[[司教総代理]]によると、2004年現在、カトリック教会は毎日687人の信徒を失っている。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ipsnews.net/news.asp?idnews=25966 Catholic Church Losing Followers in Droves] by Diego Cevallos &amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 聖職者の危機 ===&lt;br /&gt;
セペール[[枢機卿]]（Cardinal Seper）は「教会の危機は司教たちの危機である」と言っている。&amp;lt;ref&amp;gt;in Georg May, Gefahren, die der Kirche drohen, St Andrae-Woerden, Mediatrix, 1990, p.27&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[フランス]]では[[司教]]たちがカトリック信仰を失っていることを示す発言が続いている。&lt;br /&gt;
**元パリ[[大司教]]リュスティジェ枢機卿（Cardinal Lustiger）は、[[ユダヤ教徒]]たちはキリスト教に改宗する必要はないと公に教えている。&lt;br /&gt;
** 2003年、リモージュ司教、デュフール司教（Mgr Dufour）は、[[ミサ]]の説教で「私たちは創造主が存在するのかよくわからない、それを科学的確実性で知るのではなく、信仰において知るだけだ」と教えた。（これは[[第1バチカン公会議]]の宣言に反している）。&lt;br /&gt;
** フランスで1975年に[[堕胎]]の法律が成立したのは、フランスの司教たちが沈黙を守り反対の声を上げなかったためである&amp;lt;ref&amp;gt;2006年出版「フランス司教黒書」（Le livre noir des eveques de France, par Remi Fontaine）による&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
** [[ポワチエ]]のルエ司教は、[[コンドーム]]を賞賛して「唯一の病気を防ぐ手段」として必要であると主張している。（これは[[ヨハネ・パウロ2世]]、[[ベネディクト16世]]など[[教皇]]たちの教えと反している）&lt;br /&gt;
** レ・ユニオンのオブリ司教は、キリスト教的祝日を廃止することを説教した。&lt;br /&gt;
* [[アメリカ合衆国]]については、オコーナー枢機卿が、多くのアメリカの司教たちが「教皇を憎んでいる」と言っている。ガニョン枢機卿は「ほとんどのアメリカの司教たちは宣言されていない離教状態にいる（Most American bishops are in material schism）&amp;lt;ref&amp;gt;http://maher-defender.org/Final/e9.htm&amp;lt;/ref&amp;gt;」と言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 召命の危機 ==&lt;br /&gt;
=== 司祭 ===&lt;br /&gt;
統計によると、1962年から1972年の10年の間に、21320名の[[司祭]]たちが司祭職を放棄した。&lt;br /&gt;
2007年現在の統計によると、バチカンに報告されているだけでも、およそ35年の間に約7万人のカトリック司祭が司祭を辞め、そのうち約57,000名の司祭達が結婚して司祭職を放棄したと言われている。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.laciviltacattolica.it/Quaderni/2007/3764/Articolo%20V.html PRETI CHE «ABBANDONANO», PRETI CHE «RITORNANO» - GianPaolo Salvini S.I.]&amp;lt;br/&amp;gt;[http://www.dici.org/?p=10844 En 40 ans, près de 70.000 prêtres ont quitté l’Eglise]le père Gianpaolo Salvini s.j., signale : « Il n’existe pas de statistique fiable qui permette de connaître le nombre actuel de prêtres qui, ayant abandonné le ministère, se sont mariés ». Il livre cependant les chiffres officiels du Saint-Siège. En 40 ans, 69.063 prêtres ont quitté le ministère.&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 修道者の召命 ===&lt;br /&gt;
* [[ケベック]]では、1961年から81年にかけて、脱退、死亡、入会志願者減少などで修道女の数は、46933人から26294人に減った。44パーセントの減りようで、とどまるところを知らぬありさまであった。同じ時期に、入会志願者の数は98.5パーセントも激減した。残りの1.5パーセントの大部分は若い女性ではなく、&amp;quot;熟年召命者&amp;quot; である。「今後短い期間に（すくなくとも人間的観点からはまったくありえない傾向の逆転でもないかぎり）私たちの知っている女子修道生活は、[[カナダ]]ではただ記憶としてしか残らないだろう。」&amp;lt;ref&amp;gt;ラッツィンガー枢機卿 『信仰について』pp132-133&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]は2006年11月5日、カナダ・ケベックの司教たちに次のように語っている。「司祭の数は、一部の地域で主日のミサを挙げられないこともある位減少している。このことは、教会生活における秘蹟の位置づけを、憂慮されるほど危うくしている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/speeches/2006/may/documents/hf_ben-xvi_spe_20060511_ad-limina-quebec_en.html DDRESS OF HIS HOLINESS BENEDICT XVI TO THE CANADIAN BISHOPS FROM THE ECCLESIASTICAL CIRCUMSCRIPTION OF QUEBEC ON THEIR «AD LIMINA» VISIT, Clementine Hall, Thursday, 11 May 2006][http://www.nomusan.com/~essay/jubilus2009/05/090505.html 日本語訳（山内智恵子訳）]&amp;lt;/ref&amp;gt;。」&lt;br /&gt;
* 2008年には会員数4800人以上の男子修道会が11あったが、そのうち8修道会での1961年と2007年との会員数は次の通りである&amp;lt;ref&amp;gt;「司祭年」を迎えて思うこと　青山玄（『ヴァチカンの道』第21巻第2号11ページ）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 修道会名&lt;br /&gt;
!  	1961年&lt;br /&gt;
!  	2007年&lt;br /&gt;
!  	増減&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| イエズス会 ||	34,687 || 19,216  || -45% ↓&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| フランシスコ会 || 26,151 || 15,256  || -42% ↓&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| サレジオ会 ||	20,545 || 16,389  || -20% ↓&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| カプチン会 ||	15,624 || 11,166  || -28% ↓&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| ベネディクト会 || 11,500 || 7,640  || -33% ↓&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| ドミニコ会 ||	9,737 || 6,044 || -38% ↓&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 神言会 || 5,345 || 6,087  || +14% ↑&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| レデンプトール会 ||	8,956 || 5,601  || -37% ↓&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
* 1970年から2007年までの全世界における司祭総数、修道者、修道女の総数の移行は次の通りである&amp;lt;ref&amp;gt;[http://cara.georgetown.edu/bulletin/ Catholic Church Statistics]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! World Data&lt;br /&gt;
!  	1970&lt;br /&gt;
!  	1975&lt;br /&gt;
!  	1985&lt;br /&gt;
!  	1995&lt;br /&gt;
!  	 2000&lt;br /&gt;
!   	2005&lt;br /&gt;
!  	2007&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 司祭総数 ||	419,728 ||	404,783 ||	403,480 ||	404,750 ||	405,178 ||	406,411 ||	408,024&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 修道士数 || 	79,408 ||	70,388 ||	65,208 ||	59,515 ||	55,057 ||	54,708 ||	54,956&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 修道女数 ||	1,004,304 ||	968,526 ||	917,432 ||	837,961 ||	801,185 ||	760,529 ||	746,814&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 世界におけるカトリック人口|| 	6.536億 ||	7.096億 ||	8.520億 ||	9.894億 ||	10.45億 ||	11.15億 ||	11.47億&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|世界人口に対する比率|| 	18% ||	17% ||	18% ||	17% ||	17% ||	17% ||	17%&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 神学生 ===&lt;br /&gt;
* [[フランス]]では1950年代には毎年約1000名ほどの司祭が叙階されていたが、しかし1990年代では毎年100名程度しかない。&lt;br /&gt;
　2009年現在、フランスの司教区所属の司牧中の司祭数は、9000名以下である。多くのフランス司教区では10年後には司牧可能の司祭の数は最大10名となる。神学生の数は2007年から750名以下となっている。2009年以後、司祭叙階の数は100名以下となるだろう。2025年には、フランスの司教区の三分の一は統廃合されているだろう&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.paixliturgique.fr/aff_lettre.asp?LET_N_ID=435 ÉVÊQUES DE FRANCE : LEURS DIOCÈSES SE MEURENT MAIS LE &amp;quot;RÉSERVOIR&amp;quot; TRADITIONALISTE N'EXISTE PAS]及び[http://valleadurni.blogspot.com/2009/11/tradtional-reservoir-and-french-bishops.html The 'Traditional Reservoir' and the French bishops]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[ドイツ]]では1986年には、神学生と修道志願者の総計が727名あった。しかし、1996年には232名にとどまっている。&lt;br /&gt;
* [[アメリカ合衆国]]では、カトリック神学生の数は、1970年の28,819名に対し、2002年には4,719名に減少している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.seattlecatholic.com/article_20040119.html Springtime Decay by David L. Sonnier]&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! Year&lt;br /&gt;
! Seminarians&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1970 || 28,819&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1975 || 17,802&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1980 || 13,226&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1985 || 11,028&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1990 ||  6,233&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1995 ||  5,083&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2002 ||  4,719&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
Index of Leading Catholic Indicators: The Church since Vatican II bt Kenneth C. Jones ISBN-13: 978-0972868808&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
そこでアメリカのカトリック教会における司祭の叙階数は次のように減少を示している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.d-b.ne.jp/mikami/fp551.htm 信じられない減少する教会]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!区分&lt;br /&gt;
!1965&lt;br /&gt;
!2005&lt;br /&gt;
!2006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|教区司祭 ||	35,925 ||	28,702 ||	28,299&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|修道会司祭 ||	22,707 ||	14,137 ||	13,495&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|合計|| 	58,632 ||	42,839 ||	41,794&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|司祭叙階 ||	994 ||	454 ||	431&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[アイルランド]]のダブリン大司教区では、2009年以降、199の小教区教会で働く司祭の数がようやく足りるに過ぎなくなるだろう。2009年現在、ダブリン大司教区では、80歳以上の司祭が46名、35歳以下の司祭は2名しかいない。40歳以上の司祭の数は、40歳以下の司祭の数の10倍である。[[アイルランド]]では二、三十年の間に司祭が無くなっているだろうと言われている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.irishtimes.com/newspaper/frontpage/2009/1116/1224258922173.html One priest per Dublin parish shortly, archbishop warns]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 教皇たちの証言 ==&lt;br /&gt;
* [[パウロ6世]]はすでに、1969年に教会が「自己破壊」をしていると言っていた&amp;lt;ref&amp;gt;同1969年に発行された『歴史に輝く教会』（南山大学）の「公会議後の諸問題」（pp.535-579）という題の論考は、教会における危機、エキュメニズムの危機、司祭職の危機、権威の危機、信仰の危機について語っている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[ヨハネ・パウロ2世]]は、ヨーロッパのカトリック教会の状況を「沈黙の背教 silent apostasy」と表現した。&amp;lt;ref&amp;gt;（[[ヨハネ・パウロ2世]]の使徒勧告[http://www.vatican.va/holy_father/john_paul_ii/apost_exhortations/documents/hf_jp-ii_exh_20030628_ecclesia-in-europa_en.html ECCLESIA IN EUROPA 9]）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[ベネディクト16世]]は、信仰教義聖省長官であったとき、2005年聖金曜日の十字架の道行きで、[[カトリック教会]]を「沈みつつある船」に喩えた。&amp;lt;ref&amp;gt;「主よ、あなたの教会は、しばしば、今にも沈みそうな船、あちこちからあいた穴から浸水してくる船のようです。あなたの麦畑もまた、よい麦よりも毒麦のほうが多いように見えます。あなたの教会の、汚れた衣や顔に驚かされます。しかし、それは私たち自身の汚れです。私たち自身、大きなことを言うたびに、大げさに振る舞うたびに、あなたを裏切っているのです。」「教皇ベネディクト16世　黙想と祈りによる十字架の道行き」（女子パウロ会）&amp;lt;/ref&amp;gt; 更にまた、2009年3月に全世界の司教たちへの手紙の中で「地上の広大な地域で、信仰がもはや燃え尽きてしまう炎のように消え去ってしまう虞がある現代&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/letters/2009/documents/hf_ben-xvi_let_20090310_remissione-scomunica_en.html LETTER OF HIS HOLINESS POPE BENEDICT XVI TO THE BISHOPS OF THE CATHOLIC CHURCH]&amp;lt;/ref&amp;gt;」と表現している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==教皇の指摘する危機の原因 ==&lt;br /&gt;
教皇[[ベネディクト16世]]は次のように分析している。&lt;br /&gt;
* 「私たちが今日経験している教会の危機は、「あたかも神が存在していないかのような」（etsi Deus non daretur）の原則に従って行われた改革の結果である'''典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております'''&amp;lt;ref&amp;gt;[[ベネディクト16世]]　ヨゼフ・ラツィンガー著　里野泰昭訳『新ローマ教皇　わが信仰の歩み』春秋社 164ページ）&amp;lt;/ref&amp;gt;。」&lt;br /&gt;
* 「[[第二バチカン公会議]]後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、'''捏造された典礼'''が来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨てさり、その代わりに、丁度制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、'''平凡でその場しのぎの産物'''を置いた。ガンバーは、真の預言者の警戒と真の証人の勇気とを持って、この捏造（falsification）に反対した。そして、彼の信じられないほど豊かな知識をもって、疲れを知らずに私たちに真の典礼の生きる充満性について教えてくれた&amp;lt;ref&amp;gt;ラッツィンガー枢機卿　ガンバー師の「ローマ典礼の改革」のフランス語版への「序言」&amp;lt;/ref&amp;gt;。」&lt;br /&gt;
* 「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、'''典礼の歴史における断絶'''を意味するものであり、その影響は計り知れないもの」&amp;lt;ref&amp;gt;[[ベネディクト16世]]　ヨゼフ・ラツィンガー著　里野泰昭訳『新ローマ教皇　わが信仰の歩み』春秋社 162～163ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「実際に、新しいミサ典礼書が「典礼を創造的に行うこと」を正当化し、さらには要求しているとまで考えられたからです。この「典礼を創造的に行うこと」は、しばしば耐えがたいしかたで典礼をゆがめました。わたしは経験から述べています。わたしもあの希望と混乱に満ちた時期を体験したからです。そしてわたしは、典礼を勝手にゆがめることが、教会の信仰に完全なしかたで根ざした人々をどれほど深く傷つけたかを目にしてきました&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message242.htm ベネディクト十六世(教皇ベネディクト十六世の全世界の司教への手紙1970年の改革以前のローマ典礼の使用に関する「自発教令」の発表にあたって]&amp;lt;/ref&amp;gt;。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の証言 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ラルフ・マッキナリは「[[第2バチカン公会議]]の何がうまく行かなかったか」で、カトリック教会が益々世俗化する現代社会の影響を受け、また批判勢力に曝された結果として、危機的状況にあることを次のような具体例を上げている。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www17.ocn.ne.jp/~antijpj/yue/ddd.html 「第二ヴァチカン公会議の何がうまく行かなかったか」Dr. Ralph M. McInerny著(要旨)より引用]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「聖職者のあるべき姿が曖昧となった結果、多くの聖職者が還俗し、信仰を棄てている。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「司教区内で教皇との結びつきで最高位にある司教が聖職者の集まりでは他の聖職者と同等に扱われるようになった。聖書研究が教皇庁との縁を切った。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「カトリック教徒が原罪意識を失い、結婚に関する道徳面の放縦と混乱がもたらされた。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「'''典礼の改革は途方も無く受け入れ難い方向に進み'''、現代のカトリック教徒は地獄や悪魔を軽んじるまでになっている。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[オプス・デイ]]のジョン・マックロスキー神父によると、カトリック教会は、聖伝へ戻ることによって数は少ないがもっと熱心で、福音宣教を促進する教会に変わるだろうと答えている。同神父によると、リベラルがカトリック教会を離れるので、教会の指導に従い、教会の禁止している避妊をせず大家族を作る聖伝に従うカトリック信徒たちが中核に残り教会を強めるだろう。その様な家庭の息子たちが将来司祭になっていくだろう。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://theweek.com/article/index/202388/catholics-in-crisis Catholics in crisis]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;The conservatives want a return to the Latin Mass and an end to challenges to the Vatican’s authority. A return to tradition would likely result in “a smaller but much more fervent and evangelizing church,” says the Rev. John McCloskey. The shrinkage would be only temporary, he says, since as liberals left the church, it would be strengthened by the core of tradition-minded Catholics who obey the church’s ban on contraceptives and rear large families. Such families would inevitably produce more sons, some of whom would enter the priesthood. Thanks to a conservative renaissance, says McCloskey, “the church in America may well be on the cusp of a more vibrant era.”ジョン・マックロスキー神父はアメリカ人のオプス・デイの司祭で、コロンビア大学（経済学）を卒業し、ウォール・ストリートで（シティバンクとメリル・リンチ）働いていた。1981年に司祭叙階。現在、ワシントンDCの信仰と理性研究所の研究所員（リサーチ・フェロウ）である。アメリカのエリートのサークルをターゲットに宣教活動をしている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{See also|カトリック教会の性的虐待事件}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本における教会の危機 ==&lt;br /&gt;
=== 日本における現代の教会の問題点 ===&lt;br /&gt;
　2009年6月に開催された定例司教総会において、第1回『福音宣教推進全国会議』開催20周年に際して、この20年間の日本におけるカトリック教会の変化と現状の問題について岡田武夫東京大司教は次のようにまとめている&amp;lt;ref&amp;gt;カトリック山手教会月報2009年7月号（477号）（『ヴァチカンの道』第21巻第2号46ページ 野村勝美「思考の断片(30)より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 司祭、信徒、修道者の高齢化&lt;br /&gt;
* カトリック事業体の継続・運営の不安定化、困難化&lt;br /&gt;
* 16カトリック司教区の維持の困難さ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上智大学教授の光延一郎神父は2009年に次のようにコメントしている。「カトリック中央協議会が発表している教会現勢の統計資料（2007年度）によれば、この十年間、'''日本のカトリック教会に籍を登録している信者の教勢は、あらゆる項目において現状維持とも言いがたい「漸減」を示しています。'''（略）受洗者は年間七千人ほど。これも減り気味で、亡くなる方や行方不明を合わせると、どうしても総数は微減ということになります。（略）日本のカトリック教会は、少子化高齢化社会とともに、このまま再び「潜伏キリシタン」の時代に入るのでしょうか？」&amp;lt;ref&amp;gt;『今、日本でカトリックであることとは？ 2007年上智大学神学部夏期神学講習会講演集』p 3 の「はしがき」より&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本における召命の危機 ===&lt;br /&gt;
1976年には日本に 1,966人いたカトリック司祭は、30年後の2006年には 1,523人になり減少の一方をたどっている。2007年には1,489人&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/data/st07/statistics2007.pdf&amp;lt;/ref&amp;gt;、2008年には1,493人&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/data/st08/statistics2008.pdf&amp;lt;/ref&amp;gt;、2009年には1,481人&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/data/st09/statistics2009.pdf.pdf カトリック教会現勢]17ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ペトロ岡田武夫 東京大司教は、2009年6月14日に「麹町教会堅信式説教」として、「実は今年も去年も教区の神学校に入った東京教区の神学生はいないのです。ということは3年連続、新入生がいないということになりそうです。司祭になる人が出てこないということは、大変重大な問題であります。」と述べている。&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.tokyo.catholic.jp/text/diocese/daishikyo/sekkyo_20090614.htm 麹町教会堅信式説教　2009年6月14日]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さらにまた麹町教会教会報2009年11月号は召命の危機の嘆きを響かせている。「現代、教会では司祭職を求めている人が少ないと言われています。人によっては召し出しが少なくなっているからと言い、別の人は、召し出しは今までのようにあってもそれに応える人が少ないのだとも言います。」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.ignatius.gr.jp/info/hou_09/09_11.html カトリック麹町教会教会報　2009年11月号　サトゥルニーノ・オチョア S.J. 「司祭であるということ」]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
「司祭と修道者の召し出しが少ないと、私たちはずっと嘆き続けています。何とか解決策を探そうとしているのですが、これといった方法も見い出せないまま行き詰りの状況に陥っています。」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.ignatius.gr.jp/info/hou_09/09_11.html カトリック麹町教会教会報　2009年11月号　ドメニコ・ヴィタリ S.J. 「刈り入れの主に祈り求めなさい」]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
「近年、日本において召命は極端に減少しています。イエズス会も東京教区も、来年度新入生はゼロです。」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.ignatius.gr.jp/info/hou_09/09_11.html カトリック麹町教会教会報　2009年11月号　一粒会運営委員  松室康彦 「司祭召命活性化に向けて」]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===司祭、修道者の高齢化の危機===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京教区の高齢司祭小委員会の[[1996年]]の発表&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.tokyo.catholic.jp/text/kyokunews/1996/kn138.htm 東京教区ニュースNo.138 1996/12 司祭評議会に発足した　高齢司祭小委員会について　－その２－]&amp;lt;/ref&amp;gt;によれば、日本で働く[[司祭]]（1866人 そのうち日本籍司祭 996人　外国籍司祭 870人）の平均年齢は58.87才であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6年後の[[2003年]][[6月1日]]現在、カトリック司教協議会秘書室広報の発表によると、日本における全司祭1732人（そのうち91人が海外で宣教または勉学中）の平均年齢は60歳、全修道士238人の平均年齢は61歳であり、司祭のうち60歳以上の司祭数は998人で全体の約57.6％であった。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila159.html 日本：司祭の平均年齢60歳　止まらぬ高齢化「今後15年のうちに司祭数は半分から3分の1になると予測される」]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本における成人洗礼の減少 ===&lt;br /&gt;
2002年の成人洗礼の数は3889人であった。1992年をピークに減少傾向にあったが、2002年には56年ぶりに4000人を割った。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila156.html 2002年度「教会現勢」、成人洗礼は56年ぶりに4000人台割る]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
その後、2007年には3,658人&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/data/st07/statistics2007.pdf&amp;lt;/ref&amp;gt;、2008年には3,472人&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/data/st08/statistics2008.pdf&amp;lt;/ref&amp;gt;となってますます減少している。2009年には3,594人&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/data/st09/statistics2009.pdf.pdf カトリック教会現勢]&amp;lt;/ref&amp;gt;であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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[[Category:カトリック]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<author><name>Catholic</name></author>	</entry>

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