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		<title>大航海時代 - 変更履歴</title>
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		<title>Nodakenta: ページの作成：「'''大航海時代'''（だいこうかいじだい）は、15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人によるインド・[[...」</title>
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				<updated>2014-05-06T13:07:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ページの作成：「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;大航海時代&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（だいこうかいじだい）は、&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=15%E4%B8%96%E7%B4%80&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;15世紀 (存在しないページ)&quot;&gt;15世紀&lt;/a&gt;中ばから&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=17%E4%B8%96%E7%B4%80&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;17世紀 (存在しないページ)&quot;&gt;17世紀&lt;/a&gt;中ばまで続いた、&lt;a href=&quot;/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91&quot; title=&quot;ヨーロッパ&quot;&gt;ヨーロッパ&lt;/a&gt;人による&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;インド (存在しないページ)&quot;&gt;インド&lt;/a&gt;・[[...」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;'''大航海時代'''（だいこうかいじだい）は、[[15世紀]]中ばから[[17世紀]]中ばまで続いた、[[ヨーロッパ]]人による[[インド]]・[[アジア大陸]]・[[アメリカ大陸]]などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「大航海時代」の名称は[[岩波書店]]にて「[[大航海時代叢書]]」を企画していた1963年、それまでの「'''地理上の発見'''」、「'''大発見時代'''」といったヨーロッパ人の立場からの見方による名称に対し、新しい視角を持ちたいとの希求から、[[増田義郎]]により命名された。増田は、大航海時代の時間的範囲について、議論があると前置きした上で、具体的な始まりと終わりの年を提案している。増田によれば、大航海時代の始まりは、[[1415年]]におけるポルトガルの[[セウタ]]攻略。終わりの年は、[[三十年戦争]]が終結し、ロシア人の探検家[[セミョン・デジニョフ]]が[[チュクチ半島]]の[[デジニョフ岬]]に到達した[[1648年]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 前史 ==&lt;br /&gt;
=== 文化・文明の伝播 ===&lt;br /&gt;
[[人類]]出現以来、隣り合う文化文明は互いに交流し影響を及ぼしあってきた。'''文化交流'''は人類に限られたことではなく、[[道具]]の使用をも文化と認めるなら、[[チンパンジー]]や一部の鳥獣についても、個体間や隣り合う地域を介して文化交流が行われている。人類は[[言葉]]や[[文字]]を使用するので、より円滑に文化文明を伝播することが可能であるが、極東と西ヨーロッパのように遠隔地に住む人々が直接交流するためには、試行錯誤を経た知識の蓄積や[[科学技術]]の進歩が必要であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 古代の国際交流 ===&lt;br /&gt;
強大な国家が成立した場合、当然のように遠隔地間交流が加速する。そのことは[[四大文明]]の発祥地をはじめ[[インカ帝国]]や[[アステカ帝国]]の例を見るまでもなく明らかである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[古代ギリシャ]]人は、[[地中海]]周辺と[[エジプト]]さらに[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシャ]]が支配する[[オリエント]]の一部を'''[[世界]]'''として認識していた。[[アレクサンドロス3世]]（大王）の東方遠征によって、ギリシャ人の世界観はインド・[[中国]]までに一気に広がった。アレキサンドロス3世がペルシャの皇女を娶ったことに象徴されるように、アレキサンドロス3世の帝国では[[コスモポリタニズム]]が標榜され、遠隔地に住む人々同士の交流が盛んに行われ、その伝統は[[ディアドコイ]]達が建国した国々やギリシャ文化の影響を強く受けた[[古代ローマ]]にも受け継がれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[パックス・ロマーナ]]の下、整備された[[航路]]や[[道路]]を使って盛んに遠隔地交易が行われ、地中海地域や中東地域をはじめ遠く[[極東]]からも珍しい商品がローマにもたらされた。多様な[[人種]]・[[民族]]が[[奴隷]]となり或いは[[傭兵]]となり、またある人々はローマの富を求めて流入し、国際間の交流は益々増加して行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[中東]]・インド・中国でも強力な世界帝国が成立し、その影響下にある国々の間で盛んに交易が行われ、多数の交易路や航路が開拓整備された。[[アフリカ]]地域でも[[古代エジプト]]のほか、大陸奥部にも[[王国]]が成立し、[[塩]]や[[金]]が大陸を行き交った。このように各地域で発展した交易圏は、時代とともに互いに接触を深め、旧世界においては世界的交易[[ネットワーク]]が徐々に構築されていった。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ヨーロッパの停滞と復興 ===&lt;br /&gt;
ローマ帝国が衰退すると、未開人といわれた[[ゲルマン人]]や[[ノルマン人]]が相次いでヨーロッパを侵し、また[[イスラム]]勢力が[[イベリア半島]]に侵入し、ヨーロッパは混乱と停滞の時代を迎える。やがて[[西ローマ帝国]]領土であった現在の[[イタリア]]・[[フランス]]・[[ドイツ]]では、[[カトリック教会|カトリック]]を精神的支柱とする[[フランク王国]]が出現した。フランク王国はゲルマンの伝統を色濃く残していたが、ローマの遺産も尊重し継承した。ようやく安定がもたらされた西ヨーロッパの[[経済]]が活性化し富が蓄積され、フランク王国は[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]でイスラムの北進を阻んだ。[[ペスト]]の流行や気候寒冷化による混乱の中で[[暗黒時代]]を経験した[[中世]]ヨーロッパであったが、数世紀を経てゲルマン人やノルマン人の国家が淘汰･洗練され、徐々に力をつけていった。西暦[[1000年]]頃、[[ヴァイキング]]と呼ばれていた[[ノース人]]が[[ヴィンランド]]（[[ニューファンドランド島]]）の[[ランス・オ・メドー]]に到達した記録が『[[赤毛のエイリークのサガ]]』や『[[グリーンランド人のサガ]]』に記録されている。しかし、先住民[[スクレリング]]の激しい抵抗に遭い、10年ほどで放棄した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 十字軍 ===&lt;br /&gt;
[[11世紀]]後半[[セルジューク朝|セルジューク朝トルコ]]が[[パレスチナ]]を[[占領]]する。セルジューク朝トルコの脅威を受けて[[東ローマ帝国]][[皇帝]][[アレクシオス1世コムネノス]]は[[聖地]]回復を大義名分に、[[ローマ教皇]]・[[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]に支援を求めた。ヨーロッパ各地に[[十字軍]]の結成が呼びかけられ多数の王侯貴族や民衆がこれに応じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
多くの者が[[殉教]]精神から十字軍に参加したが、教皇は[[東方教会]]への影響力拡大を望み、王侯貴族はイスラムの領土や富の収奪、さらに交易が盛んな文化国家東ローマ帝国への影響力行使を望んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
狂信者や野心家、無頼漢までも含む十字軍は、[[1096年]]、[[聖戦]]の名の下に東方へ進軍した。利害対立によって抗争をくり返していたイスラム勢力を撃破しながら、パレスチナやその周辺を占領し複数のキリスト教国家を建設したが、寄せ集め勢力の十字軍もまた主導権争いに明け暮れ、ローマ法王や東ローマ帝国との対立も深まり、混迷の様相を呈した。利権をめぐって『敵の敵は味方』とばかり、十字軍勢力とイスラム勢力が同盟する事態さえ発生した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また十字軍による[[イスラム教徒]]・[[ユダヤ教徒]]など[[異教徒]]への激しい弾圧が民衆の抵抗を招き、長引く戦争によって十字軍内の士気は低下し、堕落と厭戦気分が蔓延した。さらに十字軍遠征による戦費調達は重くヨーロッパ各国民衆にのしかかり、熱狂的殉教精神も次第に沈静化していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[サラーフッディーン|サラディーン]]、サラーフ・アッ＝ディーン、による反撃から約1世紀、1291年、十字軍は最後の拠点であった[[アッコン]]を失い、聖地から[[地中海]]に追い落とされてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際交流の発展 ===&lt;br /&gt;
軍事的に失敗した十字軍遠征ではあったが、戦争によって東西交流はより発展した。ヨーロッパから[[鉱物資源]]や[[毛織物]]等が、イスラムから[[香辛料]]や[[絹]]等が、今まで以上に東西間で交易されるようになった。それによってヨーロッパとオリエントの間に位置する東ローマ帝国や[[イタリア]]諸都市国家の経済成長が顕著になる。ことにイタリアでは東西交易に伴い、東ローマ帝国の保存していた古代ギリシアの哲学・科学や、イスラム諸国からの当時世界最高水準にあったイスラム文化やイスラム科学が紹介され、しかも十字軍失敗によってローマ教皇の権威が低下し、宗教戒律に疑問を持った人々の中から[[ルネサンス|ルネッサンス]]運動が開始されて[[近代]]への扉が開けられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[モンゴル帝国]]が興ったころ、東方のキリスト教徒[[プレスター・ジョン]]が大軍を率いてイスラムを攻撃するという噂がヨーロッパに広まった。プレスター・ジョン確認のためにローマ教皇や西ヨーロッパ各国は、国情視察も兼ね同盟や交易を求めて東方に使節を派遣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして[[プラノ・カルピニ]]の使節は[[カラコルム]]に達し、[[1245年]]、[[グユク]]ハーンと謁見を果たした。そこはプレスター・ジョンの国ではなかったが、宗教や異民族に比較的寛容な[[モンゴル人]]はヨーロッパ人を受け入れ、[[パックスモンゴリカ]]の下でイタリア商人やイスラム商人が頻繁に[[東アジア]]を訪れるようになり、カラコルムや[[大都]]などの主要都市に長期滞在する者さえ現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中でも[[マルコ・ポーロ]]は約20年にわたって行われた旅行体験を[[ルスティケロ・ダ・ピサ]]へ口述し、ピサが『[[東方見聞録]]』として著しヨーロッパに広まった。イスラム諸国、インド、中国、[[ジパング]]についての記述が、[[プレスター・ジョン]]伝説とともにヨーロッパ人の'''世界'''への好奇心を掻き立てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大航海時代の変遷 ==&lt;br /&gt;
=== 海外侵略 ===&lt;br /&gt;
15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構をもった[[オスマン帝国|オスマン朝トルコ]]が[[1453年]]ビザンツ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家の連合艦隊にも勝利して地中海の[[制海権]]を獲得した。東西の中間に楔を打つオスマン朝は、地中海交易を支配し高い[[関税]]をかけた。旧来の経済秩序が激変し、新たな交易ルートの開拓がヨーロッパに渇望されるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、15世紀半ばオスマン朝が隆盛を極めつつあったころ、[[ポルトガル]]と[[スペイン]]両国では[[国王]]を中核として、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しようとしていた（[[レコンキスタ]]）。長い間イスラムの圧迫を受けていたポルトガルとスペインでは[[民族主義]]が沸騰し、強力な国王を中心とした[[中央集権制度]]が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、このころ頑丈な[[キャラック船]]や[[キャラベル船]]が建造されるようになり、[[方位磁針|羅針盤]]がイスラムを介して伝わったことから[[外洋]][[航海]]が可能になった。ポルトガルとスペインは後退するイスラム勢力を追うように北[[アフリカ]]沿岸に進出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、そして[[航海技術]]の発展、海外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペイン両国は競い合って海に乗り出して行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初期の航海では[[遭難]]や[[難破]]、敵からの襲撃、[[壊血病]]や[[疫病]]感染などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。しかし遠征が成功して新航路が開拓され新しい領土を獲得するごとに、海外進出による利益が莫大であることが立証された。健康と不屈の精神そして才覚と幸運に恵まれれば、貧者や下層民であっても一夜にして王侯貴族に匹敵するほどの富と名声が転がり込んだ。こうした'''早い者勝ち''' の機運が貴賎を問わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またローマ教皇も海外侵略を強力に後援した。16世紀初頭から[[宗教改革]]の嵐に晒されていた[[カトリック教会]]は相次いで成立した[[プロテスタント]]諸派に対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる[[宣教師]]を連れ添わせ、両国が獲得した領土の住民への[[布教]]活動を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アフリカ・アジア大陸侵略 ===&lt;br /&gt;
いち早くレコンキスタを達成したポルトガルは北アフリカへの侵略を確固とし[[1415年]]、[[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン1世]]のとき命を受けた3人の王子が北西アフリカのセウタを攻略した。エンリケ王子は西[[アフリカ]]に留まって伝説の『金の山』を見つけようと沿岸の探検と開拓を続けた。ポルトガルは[[1460年]]ごろまでに[[カナリア諸島]]・[[マデイラ諸島]]を探検し[[シエラレオネ]]付近まで進出し、さらに[[象牙海岸]]・[[ゴールド・コースト|黄金海岸]]を経て[[1482年]]、[[ガーナ]]の地に城塞を築いて[[金]]や[[奴隷]]の交易を行った。[[1485年]]、[[ディオゴ・カン]]が[[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン2世]]に命じられて[[ナミビア]]の[[クロス岬]]に到達した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1488年]]、[[バルトロメウ・ディアス]]は船団を率いて困難の末にアフリカ南端にたどり着いた。ディアスはさらにインドを目指したが強風に行く手を阻まれた挙句に乗組員の反乱も起こったため帰路に発見した岬を『嵐の岬』と名づけて帰還した。この成果にインド航路開拓の確証を得たジョアン2世は『嵐の岬』を[[喜望峰]]と改名させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1497年]][[7月8日]]、[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]は[[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]]に命じられ、船団を率いて[[リスボン]]を旅立つとインドを目指した。目的はインドとの直接交易。先人達の知識をもとに4ヶ月で一気に喜望峰に到達したガマは、アフリカ南端を回って[[モザンビーク]]海峡に至りイスラム商人と出会うとインドへの航路に関する情報を収集した。[[1498年]][[5月20日]]、ついにヨーロッパ人として初めてインドの[[カリカット]]に到着したガマは、翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1509年]]2月、[[フランシスコ・デ・アルメイダ]]は国王の命で遠征艦隊を率いてイスラム勢力と戦い（ディーウの戦い (1509年)）、インドとの直接交易を獲得するに至った。ポルトガルは順調に[[マレー半島]]・[[セイロン島]]にも侵略、[[1557年]]には[[マカオ]]に要塞を築いて[[極東]]の拠点とした。その間、[[1543年]]に[[ジャンク船]]に乗ったポルトガル人が日本の[[種子島]]に漂着して[[鉄砲]]を伝えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようなポルトガルの快挙は特筆されるべきものであり、その後のヨーロッパの驚異的な発展に寄与したのである。しかしイスラム商人は古くからインドや中国さらに[[モルッカ諸島]]などと盛んに交易していたし、[[アフリカ]]大陸においても赤道周辺地域まで交易圏を広げていた。西アフリカに成立していた[[マリ王国]]はイスラムに金・塩・奴隷を輸出していた。また中国の[[鄭和]]艦隊の一部がアフリカ大陸に到達したと言われ、南アフリカの[[ジンバブエ]]の遺跡からはインドやペルシャのほか中国製の綿製品・絨毯・陶器などが出土している。このように[[14世紀]]から15世紀までに[[旧世界]]における世界航路は、様々な国家・地域の民族によって、開拓されほぼ完成していたことも忘れてはならない。世界規模で言うならば、ガマは世界航路のひとつにアフリカ周りの欧印航路を加えたに過ぎないのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アメリカ大陸侵略 ===&lt;br /&gt;
同じころ、[[ジェノヴァ]]商人の[[クリストファー・コロンブス]]は西周りインド航路を開拓しようと[[1484年]]、ポルトガルに航海の援助をもちかけた。既にアフリカ航路を開拓しインドまで今一歩に迫っていたポルトガルはこれを拒否する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ポルトガルに遅れをとっていたスペインは[[1486年]]、[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド5世]]（[[アラゴン王国|アラゴン]]王としてはフェルナンド2世）と、その妻[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル]]がコロンブスの計画を採用し[[1492年]]、旗艦[[サンタ・マリア号]]に率いられた船団が[[バルセロナ]]港から西に出港した。1492年[[10月12日]]、[[西インド諸島]]に属する[[バハマ諸島]]に到着したコロンブスは翌年スペインに帰還して西回りインド航路を発見したと宣言した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スペインは交易品を求めてアメリカ大陸深部に進出すると豊富な金銀に目をつけた。インカやアステカを征服し原住民を牛馬のように酷使して略奪の限りを尽くした。アメリカ航路開拓に遅れをとっていたポルトガルも、[[1500年]]、[[ペドロ・アルヴァレス・カブラル|カブラル]]が[[ブラジル]]&amp;lt;ref&amp;gt;ヨーロッパから喜望峰に至る航海は風向きの関係から大西洋をブラジル沿岸近海まで大きく西に迂回するのが効率的である。このことからポルトガルは[[1490年代]]までにブラジルを発見していた可能性が高いと推定されている。アメリカ大陸発見を公表しなかった理由について、他のライバル国に迂回航路の存在を悟られないよう国家機密にしていたとされる。&amp;lt;/ref&amp;gt;に到達しその地をポルトガル領に加えスペイン同様に原住民から富を収奪した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 世界周航 ===&lt;br /&gt;
スペインの命を受けモルッカ諸島への西回り航路開拓に出た[[フェルディナンド・マゼラン|マゼラン]]（マガリャンイス）はスペイン王・[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]]の援助を得て[[1519年]]8月、[[セビリャ]]から5隻の船に265名の乗組員を乗せて出発した。[[1520年]]10月、南アメリカ大陸南端の[[マゼラン海峡]]を通過して[[太平洋]]を横断し、[[グァム島]]に立ち寄り、[[1521年]]に[[フィリピン]]諸島に到着した。マゼランはフィリピン中部の[[マクタン島]]で住民の争いに加担し、同年[[4月27日]]に酋長[[ラプ・ラプ]]によって殺された。その後、部下[[フアン・セバスティアン・エルカーノ|エルカーノ]]率いる[[ビクトリア号]]1隻が航海をつづけ、[[1522年]]にセビリャに帰港し世界周航を果たし、地球が球体であることを実証した。帰ってきたのは18名であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スペインはこの後も[[メキシコ]]（[[ノビスパン]]）から[[太平洋]]を横断しモルッカ諸島への航路を開こうと躍起になり、ポルトガルと摩擦を起こす。そのさなか、フィリピンは[[1571年]]メキシコを出発した[[ミゲル・ロペス・デ・レガスピ]]によって征服されスペイン領となった。なお、フィリピンの名は[[1542年]]、フィリピン諸島を探検した[[ルイ・ロペス・デ・ビリャロボス|ビリャロボス]]が、当時スペイン王子であったフェリペ（のちの[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]）にちなみ、これらの諸島を「フィリピナス諸島」と呼んだことに由来する。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポルトガル・スペイン間の条約締結 ===&lt;br /&gt;
ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介を[[ローマ教皇]]に依頼して[[1494年]]に[[トルデシリャス条約]]、[[1529年]]に[[サラゴサ条約]]を締結した。両国はこれらの条約により各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ヨーロッパ北部諸国による探検 ===&lt;br /&gt;
ポルトガルやスペインに遅れて絶対王権を安定させ、ようやく航海や探検の後押しをする用意が整った[[イギリス]]や[[フランス]]、スペインからの独立を果たした[[オランダ]]といった後発諸国も盛んに海外進出し、次第に先行していたポルトガルとスペインを凌駕していった。こうした後発海運国はトルデシリャス条約によって新領土獲得から排除されることを拒み、独自に航海の経験も積んでいたため、新しい技術や地図を使い北の大海に乗り出していった。後発海運国は、ポルトガルやスペインが広大な領土を獲得したにもかかわらず急速に没落していった経験から学んで、慎重かつ綿密な植民地経営を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後発海運国の最初の探検は、イタリア人[[ジョン・カボット]]（ジョヴァンニ・カボート）を雇ったイギリスによる北米探検（[[1497年]]）であり、イギリス・フランス・オランダによる一連の北米探検のはじまりとなった。スペインは、より多くの天然資源の見つかる中央アメリカおよび南アメリカの探検に人的資源を集中させていたため、北アメリカの探検に注いだ努力は限られていた。[[1525年]]には、フランスによって派遣されたイタリア人[[ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ]]が現在のアメリカ合衆国東海岸を探検しており、記録に残る最初に北米東海岸を探検したヨーロッパ人となった。フランス人[[ジャック・カルティエ]]は[[1534年]]にカナダへの最初の航海を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カボット、ヴェラッツァーノ、カルティエらの航海は、北アメリカを迂回して豊かな中国やインドに至る最短の[[大圏航路]]（[[北西航路]]）を探すことが目的だった。この航路は19世紀まで見つかることはなかったが、北西航路探索の過程で北アメリカ大陸の海岸部が明らかとなってゆき、北アメリカ自体に可能性を見出したヨーロッパ人たちは17世紀に東海岸に植民地を築き始めた。イギリスやオランダは、スカンジナビアやロシア、シベリアの北を迂回して中国に至る[[北東航路]]の探検も行い、[[ロシア・ツァーリ国]]との北海交易を始めたり、[[捕鯨]]の拠点となる北極海の島を多く発見したりしたが、やはり氷の海に阻まれアジアへの航路を見つけることはできなかった。ロシアでは[[セミョン・デジニョフ|セミョン・イワノヴィチ・デジニョフ]]が1648年にシベリア東部への探検隊を率い、ユーラシア最東端となる岬（後にデジニョフ岬と命名された）を発見した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリスやオランダやフランスはアフリカやインド洋にも航海して独自の交易地や植民地を確立し、この方面に独占的に勢力を築いていたポルトガルの地位を脅かした。ポルトガルの最も利益の大きい拠点である[[ゴア]]や[[マカオ]]を、新興諸国の拠点（[[香港]]や[[バタヴィア]]など）が包囲し、オランダがインドネシアを勢力圏として[[香料諸島]]からポルトガル勢力を駆逐すると、次第にポルトガルやスペインがアジア貿易市場に占めていたシェアは小さくなっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新興諸国は、残る未知の地域（北アメリカ西海岸や太平洋の島々など、トルデシリャス条約でスペインに与えられた地域）もスペインより先に探検した。[[1606年]]には[[ウィレム・ヤンツ]]（Willem Jansz）が、[[1642年]]には[[アベル・タスマン]]（Abel Tasman）などオランダの探検家が[[オーストラリア]]を探検している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして17世紀中ごろまでに一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達して大航海時代は終焉を迎える。世界中の富が集中するようになった英国をはじめヨーロッパ各国は、いち早く[[近代化]]を達成し世界に覇を唱えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 原典 ==&lt;br /&gt;
''詳細は[[大航海時代叢書]]・[[アンソロジー新世界の挑戦]]を参照。''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[岩波書店]] 『[[大航海時代叢書]]』　[[会田由]]、[[増田義郎]]、[[生田滋]]等の訳注で刊行。下記が[[岩波文庫]]で再刊。&lt;br /&gt;
*『大航海時代叢書．第1期』　全11巻別巻1、1965－70年&lt;br /&gt;
**[[ルイス・フロイス]]『ヨーロッパ文化と日本文化』 [[岡田章雄]]訳　&lt;br /&gt;
**『コロンブス航海誌』　[[林屋永吉]]訳&lt;br /&gt;
*『大航海時代叢書. 第2期』　全25巻、1979－92年&lt;br /&gt;
**[[ラス・カサス]]　『インディアス史』全7巻　[[長南実]]訳、[[石原保徳]]編&lt;br /&gt;
**[[シエサ・デ・レオン]]　『[[インカ帝国]]史』、『インカ帝国地誌』　[[増田義郎]]訳&lt;br /&gt;
*大航海時代叢書＜エクストラ・シリーズ＞全5巻　1985－87年&lt;br /&gt;
**インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ　『インカ皇統記』全4巻　[[牛島信明]]訳　&lt;br /&gt;
*『[[アンソロジー新世界の挑戦]]』全13巻　1992－95年　[[染田秀藤]]、[[青木康征]]等による訳注。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化]]&lt;br /&gt;
* [[スペインによるアメリカ大陸の植民地化]]&lt;br /&gt;
* [[探検家]]&lt;br /&gt;
* [[コンキスタドール]]&lt;br /&gt;
* [[南蛮貿易]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいこうかいしたい}}&lt;br /&gt;
[[Category:大航海時代|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヨーロッパ史]]&lt;br /&gt;
[[Category:ポルトガル王国]]&lt;br /&gt;
[[Category:スペインの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ合衆国の歴史 (-1776)]]&lt;br /&gt;
[[Category:探検]]&lt;br /&gt;
[[Category:海洋国家]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

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