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		<title>朝堂院 - 変更履歴</title>
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		<title>Nodakenta: ページの作成：「'''朝堂院'''（ちょうどういん）とは日本古代（飛鳥時代・奈良時代・平安時代）の都城における、宮城（[[大内...」</title>
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				<updated>2013-12-14T14:04:18Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ページの作成：「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;朝堂院&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（ちょうどういん）とは日本古代（&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%99%82%E4%BB%A3&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;飛鳥時代 (存在しないページ)&quot;&gt;飛鳥時代&lt;/a&gt;・&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%99%82%E4%BB%A3&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;奈良時代 (存在しないページ)&quot;&gt;奈良時代&lt;/a&gt;・&lt;a href=&quot;/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3&quot; title=&quot;平安時代&quot;&gt;平安時代&lt;/a&gt;）の&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=%E9%83%BD%E5%9F%8E&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;都城 (存在しないページ)&quot;&gt;都城&lt;/a&gt;における、&lt;a href=&quot;/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E&quot; title=&quot;宮城&quot;&gt;宮城&lt;/a&gt;（[[大内...」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;'''朝堂院'''（ちょうどういん）とは日本古代（[[飛鳥時代]]・[[奈良時代]]・[[平安時代]]）の[[都城]]における、[[宮城]]（[[大内裏]]）の正庁。[[818年]]以降は'''八省院'''（はっしょういん）とも称された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
=== 構成 ===&lt;br /&gt;
[[推古天皇]]の[[小墾田宮]]（おはりだのみや）あたりに原型が見られ、大内裏の最も重要な施設であり、[[大極殿]]、[[朝堂]]（ちょうどう）、[[朝集殿]]（ちょうしゅうでん）の3種の殿舎からなっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正殿である'''大極殿'''には[[天子]]の玉座である「[[高御座]]」（たかみくら）が据えられており、[[儀式]]や[[謁見]]の際に[[天皇]]が着座した。そこから左右に中庭（「[[朝庭]]」という）を挟むようにして朝堂が並び、南に東西朝集殿が建っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''朝堂'''は、天子が早朝に政務をみる[[朝政]]をはじめとする庶政や臣下参列のもと国儀大礼をおこなう重要な庁舎で、[[聖武天皇]]の代の後期難波宮（[[難波京]]）と[[長岡京|長岡宮]]では8堂、[[藤原宮]]・[[恭仁京|恭仁宮]]および[[平安宮]]では12堂であったが、前期難波宮（[[難波長柄豊崎宮|難波長柄豊碕宮]]）では少なくとも14堂以上の朝堂があったことを確認している。[[平城宮]]の朝堂院は前半・後半を通じて2つのタイプが並列しており、1つは12堂の従来型の朝堂区域ともう1つは[[饗宴]]など[[朝儀]]に特化したであろうと推定される4堂からなる朝堂区域である。8堂以上の朝堂をもつ朝堂院は、いずれの場合も中軸線をはさんでL字状ないし逆L字状の線対称に朝堂の殿舎が配置され、全体としては「コ」の字状の平面形となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''朝集殿'''は、有位の官人が朝政等に参集する際の待機の場として設けられた施設であり、[[大化]]・[[白雉]]期に営まれた難波長柄豊碕宮の[[発掘調査]]において確認されており、以後、平安宮にいたるまで、諸宮の朝堂院にも引き継がれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 機能と変遷 ===&lt;br /&gt;
====飛鳥時代====&lt;br /&gt;
朝堂院の原型と思われる殿舎については、『[[日本書紀]]』推古紀に飛鳥小墾田宮に関する記述があり、そこから推古女帝の出御する大殿（のちの大極殿）や[[大夫]]のひかえる「庁」（のちの朝堂）および朝庭について描写されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[飛鳥京]]跡の上層遺構、すなわち[[天武天皇]]の[[飛鳥浄御原宮]]と[[皇極天皇|斉明天皇]]の[[岡本宮|後飛鳥岡本宮]]については、飛鳥浄御原宮が後飛鳥岡本宮の内郭に「エビノコ郭」と呼ばれる[[宮殿]]を加えて完成したとされるところから、エビノコ郭は大極殿、内郭は内裏（天皇の私的住まい）のそれぞれ前身だったとも考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
比較的規模の明瞭な朝堂院の最古は、前期難波宮の発掘調査によって明らかになった難波長柄豊碕宮のもので、そこでは朝堂跡14基以上を確認している。朝堂の各殿舎の規模は小さいものの、その数は最多で、また、朝庭の広大さを特徴としている。建物は[[掘立柱建物]]で、[[瓦]]は使用されていない。のちの大極殿に相当する内裏前殿と朝堂院が接する内裏南門は前期難波宮において最大の門であり、平城宮の[[朱雀門]]よりも大きい。また、朝庭の北方、内裏南門の東西には、複廊に囲まれた[[八角形]]の[[楼閣]]が並び立つ。これは、他の宮都にはみられない建物遺構である。古市晃は、これを[[仏殿]]もしくは、時を告げる鐘楼・鼓楼と紹介している&amp;lt;ref name=furu&amp;gt;古市（2002）p.198-234&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
藤原宮の朝堂院は最大規模をほこり、そこでは朝堂の東西第一堂と二堂以下とのあいだに格差が設けられた。いずれの建物も[[基壇]]をもつ[[礎石建物]]で、また、宮としては初めて瓦葺屋根が採用された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====奈良時代====&lt;br /&gt;
[[平城宮]]の朝堂院は[[長安]]城[[大明宮]]（たいめいきゅう）[[含元殿]]（がんげんでん）の影響が濃いといわれている。ここでは、前半と後半ではその構成に大きな変化がみられるが、朝堂部分に関しては上述の2つのタイプの朝堂院が南北方向を長軸にして水路をはさんで東西に並ぶことでは違いがない。[[内裏]]と大極殿の関係やその移動、あるいは史書等の文献資料（[[史料]]）・[[木簡]]等の文字資料にみられる「[[中宮]]」「[[東宮]]」「西宮」と実際の遺構をどう整合させて理解するかをめぐって、活発な議論がたたかわされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、平城宮において[[大嘗祭]]の会場とされた'''太政官院'''（だじょうかんいん）について、古くは[[太政官曹司]]と解されてきたが、平城宮の発掘調査において朝堂院の区画跡から大嘗祭の際に用いられたとみられる施設の遺構が発見されたことにより、太政官院が朝堂院の別名であると考えられるようになった。なお、「太政官院」の語の史料上の初出は[[757年]]（[[天平宝字]]元年）の[[淳仁天皇]]の大嘗祭の記事であるため、飯田剛彦は大嘗祭の直前に[[藤原仲麻呂]]が太政官の最高位に立ったことを指摘して、仲麻呂主導によって実施された改名で「朝堂院」への再改名まで用いられたと推定している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[難波京]]の難波宮、長岡京の長岡宮については朝堂数が8堂と他の宮都に比較して少ない。難波京は平城京の副都として造営されたことによるものであり、長岡宮については[[複都制]]そのものの廃止にともなう[[桓武天皇]]の緊縮政策の結果であった。なお、長岡宮にいたって内裏と大極殿は分離されるいっぽう、大極殿は朝堂の正殿としての機能を強め、ここに大極殿・朝堂・朝集殿の全体を一体化してとらえる「朝堂院」の語が成立し、同時代史料のうえで確認されるようになった。なお、「朝堂院」の語の史料上の初出は[[792年]]（[[延暦]]11年）のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====平安時代====&lt;br /&gt;
[[平安京]]にいたって、内裏と朝堂院は完全に離れ、天皇の私的空間と公的空間の分離がはかられたが、大極殿と朝堂のあいだにあった[[回廊]]は取り払われて、「龍尾壇」という壇をのこすのみとなり、両者は「朝堂院」として完全に一体化した。朝堂院全体の入り口として設けられた門が[[応天門]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平安宮（大内裏）の朝堂院は、[[818年]]（[[弘仁]]9年）に朝堂各堂に中国風の号が名づけられたのと同時に「'''八省院'''」とも称されるようになった。これは、もと[[八省]]の官吏が国事を執務し、天子が決裁するための官庁であったことに由来する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八省院の朝堂建物の各殿舎の名称と着座の官司は、以下のとおりであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot;&lt;br /&gt;
!堂名||||位置||着座の官司&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''昌福堂'''||||東一堂||[[太政大臣]]・[[左大臣]]・[[右大臣]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''含章堂'''||||東二堂||[[大納言]]・[[中納言]]・[[参議]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''承光堂'''||||東三堂||[[中務省]]・[[図書寮]]・[[陰陽寮]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''明礼堂'''||||東四堂||[[治部省]]・[[雅楽寮]]・[[玄蕃寮]]・[[諸陵寮]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''暉章堂'''||||東五堂||[[少納言]]・左弁官・右弁官&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''康楽堂'''||||東六堂||[[主税寮]]・[[主計寮]]・[[民部省]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot;&lt;br /&gt;
!堂名||||位置||着座の官司&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''延休堂'''||||西一堂||[[親王]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''含嘉堂'''||||西二堂||[[弾正台]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''顕章堂'''||||西三堂||[[刑部省]]・[[刑部省|判事]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''延禄堂'''||||西四堂||[[大蔵省]]・[[宮内省]]・[[正親司]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''修式堂'''||||西五堂||[[式部省]]・[[兵部省]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''永寧堂'''||||西六堂||[[大学寮]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝堂院は名称が変わっても依然として大内裏の中心的施設であったが、[[応天門の変]]に際しての[[876年]]（[[貞観_(日本)|貞観]]18年）、[[1058年]]（[[天喜]]6年、大極殿火災のため康平に[[改元]]）に焼失し、そのたびに再建されたが、平安時代末期の[[1177年]]（[[安元]]3年）に焼失して以降は再建されず、その役割は天皇の私的な住まいである[[内裏]]や臨時の内裏である「[[里内裏]]」へと受け継がれていった。ちなみに現在の高御座は[[京都御所]]の[[紫宸殿]]にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、第2次朝堂院の大極殿は、[[970年]]（[[天禄]]元年）成立の『口遊（くちずさみ）』に「雲太、和二、京三」と見えるように、当時の人々にとって、[[出雲大社]]や[[奈良]]の[[東大寺]]大仏殿に匹敵する建物と捉えられていたと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 機能の変化 ===&lt;br /&gt;
藤原宮の頃を頂点として、次第に政事庶務の中心が朝堂院から周辺官衙に移っていき、朝堂院での政務そのものは儀式化の傾向が進み、主として[[朝賀]]や[[即位]]、饗宴など、主として[[朝廷]]の盛典、儀礼に用いられるようになった。また、それにともなって朝堂一郭の規模は、藤原宮を頂点に時代を下るごとに縮小化の傾向がみられた。儀式化した政務に[[陣定]]などの[[評定]]や[[訴訟]]が複合していったが、これらは総称して[[公事]]とよばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝堂殿舎のつくりをみると、平城宮を頂点に四面庇から二面庇へ、さらには庇なしへ、屋根構造も入母屋または寄棟から切妻へと、簡素化の傾向がみられる。これは、朝政の盛衰と深くかかわる変化であろうと推定される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝堂配置の面では、平城宮までは天皇の起居する内裏と朝堂院は接していたが、長岡宮にいたって完全に分離するいっぽう、本来は内裏の前殿であった大極殿がむしろ朝堂の正殿としての性格を強め、平安宮では大極殿前面の回廊が取り払われて、大極殿と朝堂一郭が完全に一体化した。大極殿・朝堂・朝集殿の全体を呼称する「朝堂院」の語も長岡京の時代に生まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして公的な政務の場である朝堂院と天皇の私的空間である内裏は分離されたが、[[律令体制]]の変質によって、以上のような平面変化がかえって内裏を[[政治]]の新たな中心の場とし、朝堂院はむしろ全体として儀式の場としての性格をいっそう強く帯びることとなった。[[院政]]を経て[[武士政権]]が成立すると、朝堂院が担ってきた役割や機能にもはや積極的な意義は見いだせなくなった。それが[[安元の大火]]以後、ついに朝堂が再建されなかった理由であると考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 復元遺構 ==&lt;br /&gt;
[[1895年]]（[[明治]]28年）に創建された[[平安神宮]]は平安宮（大内裏）朝堂院の施設を縮小復元したものとなっており、朝堂院の正門である[[応天門]]や大極殿などが[[弁柄|ベンガラ]]による鮮やかな[[朱色|朱]]塗りと[[瓦]]屋根、礎石列柱をもって復元されている。神宮正面の門（神門）が応天門、内側の左右の殿舎は朝集殿、[[拝殿]]は朝堂院の正殿である大極殿（左右には蒼龍楼と白虎楼が付属する）の再現である。基本的にはこれらの復元は、[[11世紀]]から焼亡までの第3次朝堂院の再現であるが、会昌門、朝堂12堂、翔鸞楼、栖鳳楼は復元されていない。また、平安神宮の社殿の瓦はすべて緑釉瓦となっているが、実際には軒先と棟部分だけにしか用いられていなかったと推定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
* 古市晃「難波宮発掘」[[森公章]]『日本の時代史3 倭国から日本へ』[[吉川弘文館]]、2002年8月。ISBN 4-642-00803-9&lt;br /&gt;
* 飯田剛彦「『太政官院』について」[[笹山晴生]]『日本律令制の構造』[[吉川弘文館]]、2003年5月。ISBN 4-642-02392-5&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[大内裏]]&lt;br /&gt;
* [[内裏]]&lt;br /&gt;
* [[大極殿]]&lt;br /&gt;
* [[朝堂]]&lt;br /&gt;
* [[朝庭]]&lt;br /&gt;
* [[朝集殿]]&lt;br /&gt;
* [[律令国家]]&lt;br /&gt;
* [[安元の大火]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_04_28.htm 幻の小墾田宮跡]&lt;br /&gt;
* [http://ariosu-web.hp.infoseek.co.jp/t/miya.htm#1 前期難波宮]&lt;br /&gt;
* [http://www.city.kashihara.nara.jp/bunkazai/asuka/ind3.htm 橿原市の文化財／藤原宮・藤原京の建設]&lt;br /&gt;
* [http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/r_miyafjwr.html 官制大観 藤原宮]&lt;br /&gt;
* [http://www.nabunken.go.jp/site/shiryou.html 平城宮跡資料館（奈良国立文化財研究所）]&lt;br /&gt;
* [http://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/kunikyu.html 恭仁宮跡の発掘調査（京都府教育庁文化財保護課）]&lt;br /&gt;
* [http://www.geocities.jp/tenpyounomiyako/ 古代の都 紫香楽宮跡（甲賀市教育委員会）]&lt;br /&gt;
* [http://www.geocities.jp/tenpyounomiyako/kakosetsu.html 紫香楽宮跡発掘調査 過去の現地説明会資料]&lt;br /&gt;
* [http://www.city.muko.kyoto.jp/gaiyo/nagaokakyouato.html 長岡京跡（向日市）]&lt;br /&gt;
* [http://tukineko.pekori.jp/heian/daidai/tyoudou.html 朝堂院（平安京）]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ちようとういん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の土木史]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の建築史]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の宮殿]]&lt;br /&gt;
[[Category:飛鳥時代]]&lt;br /&gt;
[[Category:奈良時代]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安京]]&lt;br /&gt;
[[Category:奈良県の建築物|廃ちようとういん]]&lt;br /&gt;
[[Category:奈良市の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:現存しない京都府の建築物]]&lt;br /&gt;
[[Category:上京区の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:中京区の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の庁舎|旧ちようとういん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

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